希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「みんな」を主語にして語りたがる輩を信用してはならないという件

以前のこのブログにも書いたけれども、僕は「みんな」を主語にして何かを語る人たちが嫌いである。

「みんなで決めたことだから、お前も従え」

「みんながそう思っているから○○すべきである」

何か問題があったり決定しなければならないことがあるときに「みんな」を引き合いに出して言われたら、言われた側は自分に非がなくてもその決定等に従わなければならないというプレッシャーを受けることになる。

 

「みんなが○○だから」という物言いはとても使い勝手が良いものである。

「みんなが○○だから」を使いたがる輩は、ひとりひとりが異なる価値観を持っていることが理解できず、単一の度量衡しか持たず、人々を均質化させることに快楽を覚えているのである。

質が悪いのはそういった輩は個人が負うべき責任を回避しつつ、自分の意見や考えを相手に押し付けているだけなのに、「みんな」の代弁者の顔をして悦に入ることにある。無責任体制を表象しているとも言える。

 

僕もついつい「みんな」とか「われわれ」と言った類の主語を使ってしまうことがある。このときの自分の心の内を探ると、自分の意見や考えに自信がないとか、確かなエビデンスはないけど相手を言い負かしたいときとかに使いたくなるのである。

僕はたまに「僕たち」を主語において論を進めることがあるけれども、そこには「個」の意志が存することを示したいという意図を内在させている。無責任に「みんな」や「われわれ」という主語を用いたくないというわずかばかりの抵抗である。でも、僕は「僕たち」という主語を極力用いないように気を付けている。

 

「みんなが○○と考えているのだから、われわれはそれに従うべきである」といった類の物言いには強い警戒をする必要がある。特に権力側にいる者、社会的強者が発するときには特に警戒しなくてはならない。

「みんな」という得体のしれない、でも何となく全体を代表しているような「感じ」を前面に立てて言い立てる事柄には胡散臭さを感じるのである。

ファシズム全体主義はこの束ねられた「みんな」の意志を「われら」こそが実現するのだ、という政治運動から始まることが多い、ということを過去の歴史が教えてくれている。

 

ここでは挙げられないほどに夥しい数の「みんな」を用いた物言いがこの世に溢れている。

「みんなが我慢ををしているのだから、お前もそうしろ」といった類の物言いが。

社会システムの歪みや不備、それぞれの共同体が抱える病弊を覆い隠すために「みんなが我慢しているのだから」といった言葉によって個を抑圧し、歪みや病弊を正す営為をも抑圧する。あるいはシステムの歪みや病弊によって得ている既得権を手放さないために。

 

個の確立を阻害するひとつの大きな要因が「みんな」を主語にして巷で語られているあれやこれやなのかもしれない。

自分の意志や考えを示すときには「みんな」や「われわれ」を用いることを厳に慎むこと。

何かを語るときに「みんな」を用いるような輩を信用しないこと。

これらのことを実行するだけでも自分という「個」は保たれるはずである。