希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「おっさん」と化した僕の居場所はどこにあるのか、と常々考えているという件

僕は立派な(全然立派ではないけれども)おっさんである。

最近は体のあちらこちらにガタがきている。

まだ老眼ではないけど、長時間読書をしていると目が霞んでくる。

記憶力が衰えてきた。人の名前と顔が覚えられない。

日々「老い」に直面している。

 

僕のような中高年世代は中途半端な立ち位置にいるように感じられる。

ちょっと仕事でも探すかと求人サイトを巡っていても、中高年は歓迎されていない。

60歳を超えたシニアにでもなれば、それ相応の求人は結構あるけれども、40代,50代の男にはロクな仕事がない。

若い人たちからはおっさんとして煙たがれ、年長世代からはまだまだ青いと侮られる。

 

僕にはそこそこの人生経験を経てきたとの自負がある。

しかし、なかなかこの経験をアウトプットする場がない。

このブログを凝りもせず更新し続けているのは、限られた自分のアウトプットの場だと意識しているからだ。

このブログは僕の居場所のひとつでもある。

 

僕は若者に説教を垂れるおっさんにはなりたくないと強く思っている。実際に僕は人に説教や教訓を垂れたりしない。

世間からつま弾きにされているかもしれないけれども、僕は世の中を恨んではいない。世間のどこか片隅にでも、自分が居られるところがあるはずだとの信念を持っている。

僕は取るに足らない存在である。しかしながら、僕のことを必要としている人がこの世のどこかにいるはずだと信じている。自己肯定感を損なわずに生きていこうと思っている。

 

僕は常々このブログで言っているように、ビンボーヒマだらけのダメ人間である。このことが実は僕のおっさん化を押しとどめている要因になっているのではないか、と密かに思っている。良く言えば柔軟な思考法を持っていると言える。実はいい加減でゆるいだけなのだけれども。

僕は仕事のひとつとして学習塾の講師をしているのだけれども、時々自分のいい加減さやゆるさを出している。そのところが生徒には不評にはなっていないらしい。学校の先生や親とは異なった価値観を持っている大人がいる、ということを生徒が知るだけでも意味があるとの思いがある。

 

僕はもう会社の世界に戻ることはない(戻ることができない)。会社等の組織を自分の居場所にすることはできない。

僕が関わっている、あるいはこれから関わることになるであろう人たちとの個々の関係で築かれる場が僕の居場所となっていく。同時に自分とは波長が合わない人、僕が嫌だなぁと感じる人とは無理して付き合わない。好ましく思えない人たちとの関係の場は自分にとって心地よい居場所とはならないからだ。とても贅沢なことだとは思う。

僕はこれから面白くて楽しい居場所ができることに思いを馳せ、ワクワクしている。