希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「お前のことを思って」した発言・行為を正当化してはならないという件〈再掲〉

「お前のことを思って言っている」をそのまま受け取って信用してはならない。

この類の物言いをする人の殆どは相手のことを本当には考えていない。単なる自己満足のことが多い。「お前のためを思って~」と相手が言い出したら、スルーしても差支えはない。

 

初出 2017/10/5

 

「お前のことを思って、言っているんだ」

この手の言葉に何度も出くわし、そのたびに嫌な思いをしてきた。

相手のことを思っての、善意に基づくものならば少々の暴言でも許される、という風潮がこの社会には蔓延している。

 

「相手のことを慮っている」体罰やDVなどが許されるはずはない。

たとえ相手のことを思っていたとしても、その言動によって相手を傷つけたのならば悪意が潜んでいる。善意から発したものであるというのはただの思い込みである。

 

DVやストーカー行為が悲惨であるのは「愛しているから」「お前のことをこんなに思っているから」という暴力の正当化を加害者も被害者もイデオロギーとして承認しているところにある。

暴力をふるう者は暴力をふるわれる人を「愛してはいない」ことを双方が確認すれば暴力が延々と続くことはない。

 

相手のことを本当に心配し、心底思っているのならば、黙って見守り続けるだろうし心無い言葉を相手に叩きつけるようなことはしない。

「お前のことを思って言っているんだ」といった類の言葉で相手を傷つけるような輩は自己満足・自己陶酔に陥っているだけなのである。

僕たちは相手から自分のことを思ってといった留保付きの言動に対して抵抗する術を持たない。その弱みに付け込んで、「お前のことを思って言っているんだ」といった言葉を投げかける輩は卑劣である。

 

この「相手のことを思って」の言動が上下関係を伴う関係性の中でなされたときには悲惨なことになる。

会社の上司が部下に対して執拗な叱責をし、時には人格攻撃に至るようなときにはそこには教育的指導といった美辞麗句に隠された悪意が潜んでいることが多い。部下の成長を期待してのものではなく、単なる上司のストレス発散や立場の誇示といった邪な感情が底流にあるのだ。パワハラに至る土壌がそこに熟成されているのである。

 

この社会には動機が「善」ならば結果はどうなろうと免罪されるという風潮が未だに残っている。良かれと思ってした行為が状況を悪化させても、行為者の責任は免責されるという悪しき伝統がある。相手のことを慮っての行為なのだから、たとえそれによって相手が傷つき、損なわれてもそれは仕方のないことだとされるのだ。

このことは突き詰めると、悪意があって(相手を傷つける意図を有して)も相手のことを思っているのだと意思表明しさえすれば何をやっても許される、という危険性を孕んでいることになる。

学校での体罰パワハラアカハラなどが一向に減らない原因となっている。

 

僕たちは学習し知っておくべきなのだ。

「お前のことを思って」なされた言動の殆どは悪意に基づくものであることを。

そして、そのような言動に惑わされることなく、本当に親愛の情に基づいた相手の言動を見極める目を持つことが大切であると気付くことだ。

この真贋を見極める目は普段の周囲の人たちの関わり合いの中で育まれるものなのだと、僕は思っている。