希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

たまには誰かに「おせっかい」をしてみようという件

今は「自己決定」「自己責任」が尊いとされている。

すべては個人の責任において対処すべきだと刷り込まれている。

「人に迷惑をかけてはいけない」と幼少の頃から叩き込まれ、同時に誰かに迷惑をかけられることを嫌うというメンタリティが醸成されることになる。

 

確かに「個の確立」はしなければならないと思う。ムラ社会に生きていたメンタリティを保持したままではダメなことが多いとも思う。世間や同調圧力によって個人の自由や尊厳を損なってはならない。

と同時に個人主義や自己決定原則を礼賛するのはどうかなぁ、という感じもする。

人はひとりでは生きていけない。助け合い支え合ってどうにか「一人前」になる。

 

今の世の中では程よい「おせっかい」がなくなってきているのではないかと僕は思っている。

余計なおせっかいは多いのにもかかわらず。

例えば「結婚しろ」とか「子供をはやく持て」とかといった類の個々の私生活に介入する余計なおせっかい。

例えば会社のインフォーマルなルール(会社の掟的な)とか。

要するに「どうでもいいようなこと」には余計なおせっかいをかけて、他者の生き方等を規制するのである。

 

僕は上述のようなどうでもいい余計なおせっかいをしようと言いたいわけではない。

誰かが困っているときに、自分ができ得る限りの手助けをもっと積極的にしよう、と言いたいのだ。そして自分が困ったときに、誰かに「助けて」とSОSを発信しおせっかいをかけてもらい助けてもらうのだ。共助とか互助と呼ばれているものである。

「自分のことは自分だけで始末をつけろ」とか「人に迷惑をかけてはいけない」といった教えは間違ってはいない。ある程度の自助努力は必要である。しかし、限度を超えた自助努力を強いると悲劇的な結末を迎えることが多い。自分の限界を超えた困りごとに遭遇したときにはやはり誰かの手を借りた方が良い。誰かにおせっかいをかけてもらった方が良い。

 

困っている人を見たら、どうにかしたいと思うのは人が持つ本質的な性質である、と僕は思っている。困っている人を見て、見て見ぬふりをして放置するのは人としてやってはいけないことだとも思う。この基本的なふるまいをひとりひとりがなすだけで世の中の様相は変ってくるはずである。

こんなことを言うと「お前は甘い」とか「世の中、そんなに甘くないよ」とか言われそうだが、僕は「甘くて結構だ」と思っている。ギスギスした世知辛い世の中になるよりはよっぽどましである。

 

僕はビンボーヒマだらけのダメ人間ではあるが、困っている人を見捨てるような真似だけはしたくないと強く思っている。カネが出せないのならば智慧を出し汗をかいてその誰かの手助けをしようと思っている。

こんな当たり前のことをわざわざ書かなければならないことに、暗澹たる思いがする。

けれども、僕は人の持つ善性を信じていきたい。