今の世の中は決して公正でもないし、多くの矛盾や歪みに満ち満ちている。
僕は自分が今置かれている境遇を「世の中が間違っている」せいにしたくない。
自分がビンボーなのもダメ人間なのも自分が選んでそうなったのだ。
しかしながら、世の中には自分にはどうすることもできないような理由によって生活が困窮していたり生きづらさを抱えている人たちも多く存在する。すべてを自己責任に帰するのも問題があることは重々承知しているつもりである。
当たり前の話だが、今自分が恵まれない境遇にいるのは自助努力がちょっと足りないのと社会システムの歪みによるものとの両方の要因によってである。
社会の不公正に対しては声をあげる必要がある。
自分がなすべき自助努力はできうる限りしなければならない。
ただそれだけの話である。
僕は労働問題や貧困問題に強い関心を持っていて、このブログでもそれらについてたびたび言及している。その言説はどうしても社会の不公正や社会システムの歪みを問いただす論調になりがちであり、僕もそういった論調をベースにして自分なりの考えを吐露してきた。その度ごとに僕は少しばかりの違和感を抱いていた。「世の中間違っている」とばかり言い募っていても何も変わらないのではないかと。
この社会において生きづらいとか、社会システムのどこがおかしいとかは多分にひとりひとりの主観によるものもある。
自分が適正に評価されていると感じられるのならば、現行の社会システムはわりかし公正にできているととらえられがちとなる。客観的に見てこの社会には様々な問題が存在しているとしても、自分がそれなりの処遇を受け、すいすいと世の中を渡ることができていれば「世の中はおかしい」と感じることはあまりない。
逆に自分が不当な扱いを受けていると感じていれば、どのような社会システムであっても「世の中が間違っている」と感じてしまうものなのである。
世界の歴史を振り返っても、現行の世界各国の社会システムを見ても、完全に公正で瑕疵のない社会なんか存在していない。
社会システムなんて所詮は人が作り出すものであって、完全無欠でない人が作り出すシステムなんて穴だらけの不完全なものになるに決まっているのである。
僕たちができるのは社会システムの不完全さを前提としてその中で自分がいかにしたたかに生きていくか、少しずつシステムの穴を埋めるような営為を積み重ねるか、その程度のものである。前者は自助努力であり、後者は「政治」であるとか「社会運動」とかの類になる。
「世の中の間違い」に直面して、そこに立ち竦むのも喚き散らすのも各人の自由ではあると思うけれども、賢明な選択ではない。
「世の中は間違いだらけである」という事実を一旦は受け止めて、そんな社会の中で自分の居場所を確保するという営みを続けるしかないような気がする。
「間違いだらけの世の中」でもひとりひとりが適正な評価を受けるように少しばかりの自助努力を果たし、小さくてもよりよい社会を求める声をあげ続ける。
地味で地道なことを積み重ねることでしか世の中は変わらない。
当たり前の、つまらない結論じみたものになってしまうけれども。