希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「言葉にできないこと」は山ほどある、という件

ヒトという種がこれほど進化し繁栄を謳歌できるのは言葉を身に付けたからだと言われている。

コミュニケーションの手段は幾つもあるが、言葉がその主たるものであることは確かである。言葉の持つ力は大きなものだ。

 

ところが、言葉は人の思考をすべて表せるわけではない。この社会で起きている出来事をすべて的確に表現できない。言葉の持つ力には限界がある。

この世には言葉で言い表せないことが沢山ある、ということだ。

当然と言えば当然のことだけれども、僕たちはしばしば言葉の持つ力を過大評価する。自分の思っていることはすべて言葉にできる、この社会の姿を言葉で説明できると思い込んでしまう。

 

恋愛において、時としてそれが不毛なものに感じられたり、ディスコミュニケーションが生じるのは言葉に過剰に寄り掛かっているからである。

自分の思いが言葉にすればそれが陳腐なものと化してしまうことは多くの人たちが経験していると思う。自分の本当の感情が半分も表現できないと臍を噛むような思いをすることが多い。言葉は万能なものではないし、ありえないのである。

 

僕はブログを書くたびに自分の考えていることが十分に表現できていないとの思いにとらわれる。それは僕の文章能力が稚拙であるということは論を待たない。

僕の表現力が稚拙であることを考慮しても、それにしても自分の思いがうまく文章にならないことに苛立ちを覚えてばかりいた。

伝えたいことがあるのに、それをうまく伝えられない。言葉という強力な表現手段があるのにそれを上手に使いこなせない。一見自分が言いたいことを表現できたような文章を書いても、読み返してみると粗が目立ち不満が残る。この繰り返しである。

 

僕は自分が言いたいことを言葉によってすべて伝えるのは無理だと半ば諦めている。

「言葉にできないこと」はこの世に山ほどあって、そのことを受け入れなければならないと思っている。言葉によってすべてのことを表現できる、と考えるのはとても傲慢なことなんじゃないかと思うようになってきた。たとえ今以上の表現技法を身に付けても状況は変わらない。

 

知的な営為とはこの世の中で複雑に入り組み錯綜した様々なことを言語化することである。

僕たちは先人の営みを後追いしているだけに過ぎない。その言語化されたものを借りて、それをさも自分のオリジナルのものと思い込んで用いているだけなのである。

僕たちは謙虚さを忘れている。

この世のすべてのものごとを言葉にできるはずだと思い込んでいる。

「言葉にできないこと」なんてあちらこちらに沢山あって当然なのである。

 

自分が思っていること・考えていることを言葉を使って表現することは面白い営みである、と僕は確信している。

それだけで十分なのではないか、とも思っている。

言葉にできないようなものごとに相対して、それを自分なりの言葉にしようと格闘することもまた面白い営みである。

言葉で表現することは奥が深い(当たり前のことを今さら言うな、という感じだけれども)。

どうやら僕はこの奥が深い営みに魅入られたらしい。