希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

適度に「棲み分け」ができている社会が生きやすいという件〈再掲〉

人には得意不得意、向き不向きがある。

人それぞれが自分の適性に応じて、役割を果たして、自分の力を共同体に還元できているようになれば生きやすくなると僕は思う。

 

初出 2017/9/19

 

人それぞれが持っている価値観は異なっている。

得意分野不得意分野もそれぞれ違っている。

好きなこと嫌いなことも当然に違っている。

自分が大切なことだと考えているものも異なる。

とても当たり前のことを並べてみたけれども、今の世の中は人を均質化させようという強い作用が働いている側面があるように思えてならない。

 

野生の動植物は生態系の一部として「棲み分け」をして共存共栄している。

人も動物である。

人が作り上げた共同体の中でそれぞれその資質や適性に応じた棲み分けをして共同体の一員としての役割を果たしながら生き永らえてきた。

その棲み分けは時として「身分」というものを作ったり「階級」や「階層」を生み出してきた。共同体の成員間に「分断線」を作ってきてその弊害があったことは否定できない。

 

資本主義体制下では必然的に持つ者と持たざる者が生まれ、その両者の間に大きな経済的格差が生じることになる。貧しい者と富める者に分断され、それぞれが自身のテリトリーの中で生き、階級の再生産をすることは「棲み分け」と言えるのだろうか。

僕が言いたい「棲み分け」とはニュアンスが異なるものである。もっと実生活に根差したミニマムなものである。

 

僕たちはどんな形であれ、生活を営むためにはカネを稼がなければならない。資本主義体制の社会ではカネこそが万能の役割を果たしているからである。

本来なら人はカネを得るために、社会規範に反しない限り、いかなる手段を用いてもよいはずである。

だが、現実として大半の人たちが雇われて働くという形を取って収入を得ている。もちろん、サラリーマン(労働者)と言っても多種多様である。

仕事の内容や勤務形態等はそれぞれである。

大ざっぱなとらえ方になってしまうが、今は労働者中心の「企業社会」となっている。主だった社会システムもマジョリティが有する価値観も「雇われて働く」ことがデフォルトとなっている。

 

僕の全くな個人的な感覚なのだけれども、この社会では人々は「棲み分け」ができているようで実はできていない、と思われる。

これは僕が企業社会から逸れてしまって少数派に属しているから抱いてしまう感覚なのかもしれない。

企業社会ありきの棲み分けと僕が思う棲み分けは全く異なるものである。

 

僕が言いたい「棲み分け」は至ってシンプルなものである。

会社に勤めて働くことが嫌い、辛い、苦痛な人たちまでもが心ならずも会社勤めをしなければならない状況を何とかしたいというものである。

いや、僕に「何とかする」力も影響力もない。

僕自身や会社勤めに疲れて嫌気が差している周囲の人たちだけでも苦痛を感じないようなカネの稼ぎ方がないものかと試行錯誤し、その実践をしたいというものである。

企業社会から離れて、自己の領域で己の力で仕事を得て稼ぐ、そんなことができないか、ということである。

例えばphaさんやその周囲にいる人たち、松本哉さんの「素人の乱」、伊藤洋志さんが提唱する「ナリワイ」など、企業社会から一線を画した働き方や生き方である。

企業社会特有のイデオロギーに毒されない独自の働き方や生き方を実践すること、それが僕の言いたい「棲み分け」である(本来のこの語の用法とはかけ離れているのは承知の上である)。

 

会社や役所をはじめとする組織に属さないと世間では信用されないのも事実である。

なかなか「棲み分け」を実践することは難しい。

自律性と自己責任が要求される。

「安定」を捨てなければならない。

しかしながら、マジョリティの人たちよりも困難なことだと分かっていても別な生き方・働き方を選択せざるを得ない人たちがいる。

「棲み分け」によって自分の居場所を得ている人や得たい人が今よりもちょっとだけ社会に受け入れられるようになれば、随分と生きやすくなる。