僕は特定の宗教を信じていない。特定のイデオロギーの信奉者でもない。
いや、厳密に言えばそのように思い込んでいるだけなのかもしれない。
何々教を信じていないとか、何々主義者でもないという表面上のことだけなのだ。特定の宗派を信じているとか特定のイデオロギーを有している、などといったことは表層部分しか見ていないのである。
この国で生活している人たちは無宗教であるとよく言われる。イデオロギー色が薄い国民性だと言われている。
果たして本当にそうなのだろうか。
占いやジンクスを信じたり、パワースポット巡りをしたりすることは宗教と無関係だとは言い切れない。
資本主義体制を無抵抗に受け入れ、経済成長至上主義的な考えに疑念を呈することもあまりない。
この国では厳然とした宗教・イデオロギーが存在する。
特に戦後に顕著となったものであるが、「会社教」とも言うべきものであり、「労働至上主義」「勤勉至上主義」といったイデオロギーである。
高度経済成長期以降会社をはじめとする組織に属して働く人たちが大多数となり、会社が地域共同体の代替物としてその存在感を大きくしたのである。
多くの人たちは会社の中に埋没し、自律的に生きることを放棄し、会社の論理に盲従するようになったのである。
名経営者と呼ばれる人たちが「教祖」となり、多くの人たちはその教義を受け入れ、ますます「労働することが人生の目的」と化し、同時に労働至上主義イデオロギーに盲従することになったのである。
世の多くのサラリーマンは「自分はそんなイデオロギーとは関係ない」「好きで働いている、生活のために働いている」と言うだろう。
人はあるイデオロギーに盲従すると、自分はそのイデオロギーに基づいた価値観に縛られていることを意識できなくなる。この無意識の盲従が多数の人たちによってなされるとそのイデオロギーは無謬性を獲得する。
労働至上主義あるいは勤勉至上主義的イデオロギーは資本主義体制を維持するための必要不可欠なエートスであり、大多数の人たちはこのイデオロギーを知らず知らずのうちに信奉しているのである。
僕たちは宗教やイデオロギーという言葉を聞くと、何か特別なものであるという感覚を持つ。一部の狂信的な信者や主義者特有のものである、という思い込みをしている。
働くことは生活の糧を得るためのものと割り切っているように思っていても、実はその根底には労働至上主義的なイデオロギーがある、ということを忘れがちになっている。
働かない人、怠けているように見える人、ニートやひきこもっている人を目にしたら嫌悪感を抱く人が多いのはそれらの人たちが労働至上主義的イデオロギーに毒されているからである。
この世に絶対的に正しいイデオロギーなど存在しない。
労働至上主義イデオロギーも勤勉至上主義イデオロギーもそうである。資本主義が勃興し、資本主義を維持発展させるために都合が良いものとして生まれたものに過ぎない。
たまたまこれらのイデオロギーの信奉者が多数派になっているだけのことなのだ。
人は宗教やイデオロギーとは無縁ではいられない。
目に見えないものを信じ、絶対的な存在を意識することは悪いことではない。
絶対的に正しいとされる思想に従うこともまた悪いこととは言い切れない。
しかし、宗教やイデオロギーに基づく「正義」によって大量の人たちが殺戮されたことは歴史が証明している。この事実を忘れてはならない。こんなに大仰なことではなくても、イデオロギーに盲従することはそのことによって人を縛り付けることになりがちである。
僕が今信奉しているイデオロギーは「怠けていてどこが悪いねん、ダメ人間で悪いかよ」といった怠惰礼賛主義、ダメ人間肯定主義である。
このイデオロギーも当然に絶対的に正しいものではない。