以前にこのブログでも書いたけれども、ビンボーと貧困は似て非なるものである。
貧困は社会システムの歪みから生み出されるものであって、当人にはどうすることもできない性質のものである。努力しようにもできない境遇に置かれ、社会階層の上層に移る道を閉ざされているのである。また、階層が固定化され、それが世代を経ても連鎖される。貧困は社会問題であり、社会全体でその解消を図らないとどうにもならないものである。
貧困問題を語るとき、今のこの世の中では「選ばなければ」働く場があり、やる気さえあれば貧困なんかに陥らないという類の言説が頻出する。
この手の論を吐く輩には想像力というものが決定的に欠けている。この手の輩は運よく恵まれた境遇にいて、その恵まれた境遇に自分がいるのは自分の能力や努力によってのみ手に入れたものだと大いなる勘違いをしているのである。
たとえ能力に恵まれ努力をしている人であっても、社会状況によって自分にマッチする仕事を得られなければ貧困に陥る可能性がある。逆に世襲の政治家やタレントのように大した才能もなく努力をしていなくても富や社会的地位をあっさりと得られることもある。
僕はビンボー生活を送っているがこれは自己責任である。自分が選択して今のビンボー生活を送ることにしたのだ。
僕は恵まれた状況にいるのでビンボー生活を送ることができている。今の状況が壊れたならば、お気楽なビンボー生活は送ることができなくなる。そのときは意に反した労働に従事することになるだろう。
世の中にはビンボー生活を楽しんでいる人が多く存在する。様々な理由によってビンボー生活を送っている。自分の夢を実現するためのもの、「労働」を忌避した挙句のもの、ただ何となく楽しさを求めてのもの、等々十人十色である。
一概には言えないが、ビンボー生活を営み続けているのは自己責任であるとみなしてもよい。例えば学歴も高く能力もあるのに、会社に勤めるのが嫌で自分の好きなこと興味のあることに心血を注ぎ、結果カネがないといった人たちはどう見ても社会の責任ではなく自己責任においてビンボー生活を選んでいると言える。
単なるビンボー人には社会的階層の上昇の可能性が残されているがゆえに悲壮感が減じている。著名人の多くがビンボー生活を経験しているが、その話が往々にして明るさがあるのはビンボー生活当時に「希望」があったからである。
同じカネがない状況でも貧困状態には希望や明るさがない。
貧困状態に陥るということは、経済的状況だけでなく、社会的な孤立、絶望感を伴うことである。個人の自助努力ではどうにもこうにもならない状況に陥ることである。
こういった状況に陥った人たちには社会全体でフォローすることが求められる。国家や公共団体が果たさなければならない役割でもある。
貧困を放置し、自己責任論で片付ける態度は国民国家の否定であり、この社会で生きる人としての責任の放棄である。