希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

恵まれない人たちへ支援するのは「立派な人」でなくても良いという件

僕がかつて福祉関係の仕事をしている時、「大変やねえ」とか「立派なことをしてはるねえ」といった類の言葉をかけられることがあった。その言葉が本心から出ているのかどうかは分からない。「汚れ仕事をようやるわ」「人の嫌がる仕事をするなんて、物好きやわ」といったところだろうと僕は睨んでいる。

僕は人から褒められるために福祉関係の仕事を選択したわけではない。ただ何となく興味があって従事しただけのことだ。福祉関係の仕事でなくても、人助けをする仕事なんて山ほどある。

 

貧困問題の解決のために奔走している方が人から殊更に褒められることに違和感を覚えるといったことをその著書に記していた。そこには「あなたは立派だけど、自分には関係ない」という無関心が潜んでいるという。

無関心ほど冷酷なものはない。

恵まれない人たちを助けようと奔走する人たちを横目に見ながら「立派だね」と他人事のように言い募る人は、無関心が問題の解決を妨げることに無自覚であることを何とも思わない。残念ながら、この社会ではそのような人たちが多数派を占めている。

 

困っている人を助けることは何も特別なことではない。人は太古の昔から共同体を作り助け合って生きてきた。人はひとりでは生きていけない、と皆が共通認識を持っていたのだ。

近代化あるいは資本主義体制が深化すると共同体が破壊され、人々は依って立つ足場を喪失し「個」として社会に相対しなければならなくなる。

自助努力ばかりが尊ばれ、「自己決定」「自己責任」イデオロギーが蔓延することになる。共助(助け合い)の精神が薄れて、公助(社会保障制度)は人を堕落させるという認識がまかり通るようになる。

 

恵まれない人たち生活に困窮した人たちを助けるのは余裕のある人かあるいは政府による恩恵によるものといったことになれば、強者による施しに弱者が縋るといった図式となってしまう。

社会的弱者に対する救済は人としての尊厳を回復させるためのものである。どのような属性を持つ人も人に値する生活を営む権利を有している。これらの理念は現代の国家が有する最低限の責務である。別に「福祉国家」だけが有するものではない。

 

かと言って恵まれない人たちへの救済を国家や自治体に丸投げして事足りるという訳ではない。自助努力も必要だし、共助も絶対に必要である。

助け合いや分かち合いを喪失した社会はディストピアである、と僕は思っている。

社会保障制度による救済と人々の助け合いが互いに補完し合ってこそ生きやすい社会となる。

 

恵まれない人たちへの支援は経済的に余裕のある人や「意識の高い」人たちだけがなすものてあってはならない。

自分がちょっとしたきっかけで社会的弱者となってしまうという「明日は我が身」といった意識を持つことを忘れてはならない。その意識を持っていれば無関心ではいられない。

人は病や老いからは逃れられないし、ちょっとしたきっかけで仕事を失い経済基盤を失うこともある。

 

繰り返すが困っている人や恵まれない人を助けるのは特別なことではない。

自分がその場でできることを無理せずにすればいいだけの話である。人助けをしている人に対して偽善だと言い募る輩は無視して良い。

特別に「立派」ではない人たちが困っている人たちを助けることが常態となる社会を僕は切望している。