希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

高収入の男性を結婚相手に求める女性は正しいという件

結婚相手に経済力を求めるのは当然のことである。たとえ愛情があったとしても、相手の人柄が良くても日々の生活が立ち行かなくなったらどうにもならない。

今は女性が働くことが当たり前となり、一昔前のように男性に全面的に養ってもらおうと考える人は減少している。しかし、相変わらず男性に経済力を求める風潮は残っている。社会に出た男性はほぼ正社員という図式が崩れ、非正規雇用の男性も増加している状況と労働者の賃金が低位で推移している状況が続いている。生涯未婚率が急激に上昇している理由のひとつは男性の経済基盤が脆弱になっていることだと推測される。

 

僕が若い頃、大学生の頃や働き始めた頃は女性の男性に対する要求はかなり高かったように思う。バブル期を経て、消費資本主義社会となり、物質的な豊かさがピークに達していた頃の話だ。

男性がデートの費用を全額出すのが当然であって、自家用車を持っていないと相手にされないとか、グレードの高いクレジットカードを持っていないとダメだとか、プレゼントはブランド物であることが当然だとか、今となっては狂っていたとしか言いようがない。

 

バブル期前後の現象は例外的で異常であったとしても、資本主義が行き着くと物質至上主義、カネが万能の世の中になる。資本主義の世の中ではカネを多く持つ者、カネを多く稼げる者こそが勝者となり、正義となるのである。カネを多く稼げる者は資本主義社会に最も適応していて、その体制が覆らない限りずっと社会の上層に居座り続けることができるのである。

 

カネを多く稼げる者や大量にストックしている者が現行体制に最適種の人たちである。ならば結婚の相手にそれらの「勝者」を選ぼうとするのは生存戦略上正しい行動となる。

確かに結婚相手の人柄や性格も重要な要素ではあるが、それらは客観的に計測ができないものである。どうしても主観が入ってしまうものである。他方でカネのあるなしは計測可能である。いくら世の男性が「人の価値は中身で決まる」と叫んでも、それは空しいことなのだ。

女性が自分磨きをするのは自分自身のためでもあるが、「最適種」の男性に選ばれようとするためでもある。

いくら相手となる男性の人柄が良くても、現行の社会システムの中で生き延びること(あるいは社会の上層に達する)の可能性が高くないと見做されれば女性から選ばれなくなる。身も蓋もない話だが、そうなのである。

 

しかしながら、高スペックの男性の数は圧倒的に少ない。世の男性の多くは「可もなく不可もなく」といった程度のスペックを有している。ちなみに僕は「不可」であると自覚している。

だから大多数の女性は「妥協」して相手を選ぶことになる。年収1000万円が無理なら600万円で手を打とう、それも無理ならまあ400万円もあればいいか、といった具合に。

相手に求める収入が減ると、それを補完するために相手の人柄とか自分と価値観が近いとかの要素が入ってくる。

高収入の相手ならば、人柄や性格、価値観を問わないという訳ではない。収入が高い相手だと、人柄や価値観の占める割合が相対的に低くなりがちだということだ。

世の女性の多くは相手の収入(カネの多寡)と人柄や性格を比較考量しているのである。この態度は生存戦略としては正しい。

 

こんな話を続けていると、では収入が低い、カネを稼ぐ力が備わっていない(おそらくは多数派の)男性はパートナーを得られないのかということになってくる。

心配することはない。

世の女性の多くは「妥協」して相手を選ぶ。また、女性自身が稼げる人であれば相手に高収入を望まないかもしれない。少数派であるが、収入で相手を選ばない「物好き」な女性もいるはずである。計測が困難だけれども事実としてはある「相性」が合う合わないということもある。

 

できるだけ収入の高い相手を選ぼうとする女性を非難をしても無意味である。

そんな行動様式を持つことは仕方のないことである。

カネが万能という資本主義社会に生きていくためには、そんな女性たちの行動様式を受け入れなければならない。

それが嫌ならば、資本主義のドグマから逸脱した生き方を模索することだ。

それはそれで悪いことではない。