希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人に何と言われようとも僕は頑張りたくないという件〈再掲〉

殊更に頑張りが強調される社会は生きづらい、と僕は思っている。

個人の頑張りですべてが片付くという考え方も嫌いだ。それたただの思考停止である。

 

初出 2017/8/24

 

僕は幼少の頃から頑張ることが嫌いだった。正確に言えば人に自分の「頑張っている」さまを見せることが嫌だったのだ。

今もそうだけれども、ガンバリズム、根性主義的なものが大嫌いである。

 

「頑張れ」という言葉は便利で使い勝手が良いものである。

もし何らかの結果が出なければ、その人の頑張りが足りなかったからだとしてすべてをその当人の責に帰することができるからだ。これは自己責任論に近いものがある。

また、目的達成のプロセスにおいての戦略や戦術の稚拙さを隠匿するはたらきを持っている。会社の業績が芳しくない時は社員の頑張りが足りないからとして経営者の稚拙な経営手腕を覆い隠すことになる。学校教育に問題点が表れると教師の頑張りが足りないからだと教師個人の責任に転嫁する。つまり、責任を取るべき者の責任回避のために「頑張り」が執拗に用いられ、現場の一線に立っている人たちに責任をなすりつけるために「頑張り」が利用されているのである。

 

 

この社会では「頑張らない」でいると、それだけで強く責められてしまう。さらには頑張ることができないでいると人格に欠陥があるとレッテル貼りをされて人格攻撃に晒されてしまうのである。

頑張ることができない人たちにはそれぞれ事情があり、それは個人ではどうしようもないことであるのに(社会構造、環境等の影響があるのに)、本人の意欲ややる気の問題だとして個人の問題に収斂されてしまうのである。

 

僕はこれまでに幾度も理不尽な個人攻撃を受けてきた。そのこと自体はまあ仕方がないな、と思っているのだけれども、なんだかもやもやとした感じは常に付き纏っていた。

僕は僕なりに(人から見れば不十分かもしれないが)自分のやるべきことを着実に行ってきたという自負があった。良い結果が出るかどうかは運不運や時の勢いといった不確実な要因に負うことが多い。努力や頑張りが即結果に結びつくことなんて稀である。「頑張りさえすれば必ず報われる」なんて現実を無視した質の悪いイデオロギーもどきに過ぎない。殊更に頑張りを人に強いる輩は知的レベルが低い精神主義者だと思ってしまう。

 

ある程度の頑張りは絶対に必要だと僕も思う。

しかし、限度を超えた頑張りの強要は百害あって一利なしである。

人は誰でもそれぞれが目的に向かって頑張っている。たまたま結果が出る人がいれば結果が出ない人もいる、ただそれだけのことである。頑張ったからこそ成功したと強調することは不毛な精神論に堕してしまい何だか居心地の悪さを覚えてしまう。

 

僕は頑張りたくないし、人に頑張りを強要したくもない。

「怠け者」だとか「向上心がない奴」と謗られようともである。

「頑張れ」という言葉の裏には邪なものが隠されている。たとえそれが善意から発せられたものであっても、である。

「頑張る」「頑張れ」といった言葉を安易に持ち出さないよう、厳に慎みたい。