希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は「個性的」という言葉があまり好きではないという件

僕はこのブログで何度も書いているように平凡な人間である。

外見的には取り立てて特徴もないし、性格もそれほど偏ってはいない(と自分では思っている)。人に誇れるような特技もない。強いてあげれば、このブログを4年以上続けていることくらいである。平均的な文才、とも呼べるものが備わっているのではないかと勝手に思っている。

 

僕が学生の頃の学校と言えば、生徒を「均質化」させるように仕向ける場だった。僕はそんな学校、特に小中学校がたまらなく嫌だった。

昨今は学校教育においては「個性の尊重」が叫ばれているようだが、実際のところはどうなのかはよく分からない。おそらくは僕が学生の頃とは大して変わっていないのだろうと推測する。

 

僕が小中学校が嫌いだったというのは何も自分の個性が殺されると思ったからではない。単に集団主義的なものが性に合わなかっただけである。

僕が思うに人それぞれの個性とは勝手に自然発生的に作られるものである。学校の教育なんかで伸ばしたりあるいは殺したりするものではない。

子どもは自分の属する集団の中で自然と自分の「キャラ設定」を行う。スポーツが得意、勉強ができる、給食を食べるのが早い、おちゃらけをする等、自分が得意とする分野で自分のキャラ立てを行い、仲間内での立ち位置を決めるのである。

 

僕は「個性的でなければならない」という物言いが好きではない。個性的であれ、ということ自体が同調圧力になるからである。

群を抜いて個性的になるとその人は共同体から排除されることになる。人はあらゆる社会規範の縛りの中で生きている。個性の許容範囲はそれぞれの共同体の規範の範囲内で認められるものである。個性とは他者との比較の中で決するものである。共同体から排除され、独りぼっちの人間に個性もくそもない。

 

どんな人もある程度は個性的であり、また似たり寄ったりである。

その「個性」と呼べるものが、他者の模倣であることも多い。

ホモ・サピエンスという種の中でのわずかな差異である、と言うこともできる。

そのわずかな差異を巡って競い合っているに過ぎないのである。もし、異星人が存在するとして、その異星人からすれば人を判別することは難しいのかもしれない。

 

とは言え、僕たちは「人はみな似たようなもの」と言われれば強い違和感を抱くはずである。「俺はあいつらとは違う」と抗弁するだろう。それは当然だ。人とはそんな生き物であるからだ。他者とのわずかな差異を言挙げて、自分の存在意義を確認する、という行為をせずにはいられない。この行為を延々と続けてきたからこそ、文明が生まれ、人が種として発展してきたのである(同時に戦争を続けてきたとも言える)。

 

話が大きくなりすぎた。

僕は「個性的」ということに拘らなくてもいいのではないかと言いたいだけなのである。

人はそれぞれに大なり小なり個性を持っているし、また誰もが似たり寄ったりである、ということで十分ではないかと僕は思っている。

あまり他者との差異にこだわると、個性的であることにこだわると、逆に自分の生きていく場の幅を狭めてしまうことになるような気がしてならない。