希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

ベーシックインカムを採り入れてもすべての人たちが幸せにはならないという件

僕はすべての人に無条件・平等に金銭給付を行うベーシックインカムを概ね肯定する。全面的に賛成というわけではない。生活困窮者を選別し、調査し、厳格な基準をもって現金支給をするという現行の制度は限界を迎えていると感じている。生活保護を受けることは「恥」だという感覚を植え付けて、支給を渋るような現行の制度は貧困を自己責任として、政府の不作為を免罪するシステムと化している。

 

とは言え、ベーシックインカム的な施策を取ったからと言って貧困の根本的な解決にはならない。貧困と貧乏は似て非なるものである。貧困とはただ単に収入が無くて生活が困窮している状態を指すのではない。社会とのつながりが断たれ、孤立していることが問題なのである。

ビンボー人はベーシックインカムによって救われるが、貧困状態はそれによっては救われない。

 

僕はベーシックインカムがあれば「とても助かる」人たちのカテゴリーに入るだろう。最低限の生活+α分だけの収入を確保すればいいので、ベーシックインカムがあればちょっとだけ働けばいい。僕はダメ人間だが勤労意欲は(人並み以下だけれども)まだある。僕のようなタイプの人間にとってはベーシックインカムはとても意味がある。

 

僕なんかよりは勤労意欲はある、しかし馬車馬のように働くのはイヤだという人たちにとってもベーシックインカムは有効である。

ベーシックインカムという定額の収入があれば、嫌な職場に固執する必要もない。転職は容易になるし、働き方をゆるいものにすることができる。

給料の額が高くないけれども自分が納得できる仕事に就くこともできるようになる。より高い報酬を求めて自分の意に反した仕事をしなくてもいいようになれば、もしかすると世の中の雰囲気が変わるかもしれない。

 

一方で勤労意欲が旺盛で上昇志向が強いタイプの人たちにとってはベーシックインカムなんてあってもなくてもいい代物になる。

よくベーシックインカムを導入すれば人々の勤労意欲がなくなるという批判があるが、これは的を外れた言説である。

働きたくてウズウズしているような人たちは多少のプラスの定額収入があってもその意欲が失せることはない。

 

全く勤労意欲がない人たちにとってはどうだろうか。

「働かざる者、食うべからず」という考え方が正しいという価値観が優勢な社会においては、これら働く気がない人たちの生活を税金を使って保障するということはありえない。今はこの考え方が多数派である。

しかし、人が人である限り、たとえ働くことを忌避する人であっても、人に値する生活を保障すべきである、という考え方も成り立つ。この価値観の下ではベーシックインカムの理念は生きてくる。怠け者であること、怠惰であるということだけをもって生存を脅かされることはなくなるだろう。「怠惰であることの権利」は保障される。ただ、このことが本当に良いことなのか、僕には分からない。僕の個人的な意見だけれども、「怠ける権利」的なものは認めるべきだと思うが生活保障までするとなると頭を抱えてしまう。

 

無差別・平等で普遍的とされるベーシックインカムでも人それぞれの資質・意欲・環境等でその効果は分かれることになる。

つまりはベーシックインカムがあってもすべての人が幸せになるわけではない。確かにホームレスは激減するだろうし、絶対的貧困はなくなるだろう。

ある「制度」によってすべての人々を「救う」ことなんてありえないのである。

所詮は人間が作った「制度」によって、人の生き方を変えられると考えるのは「傲慢」以外の何物でもない。