希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

行き当たりばったりでも大抵は何とかなるという件〈再掲〉

僕たちは学生の時も社会に出ても計画性を求められる。

先のことなんて分かるはずがないのに、あるべき未来を想定して今の生き方を規定する。計画性がなさそうに見える生活をしていると、社会人失格のレッテルを貼られることもある。型に嵌った生き方を推奨する理由は何なのか、僕にはよく分からない。

 

初出 2017/8/10

 

僕たちは学生の頃から「将来のことを考えろ」とか「計画的に行動しろ」といった類のことを言われ続けてきた。

「行き当たりばったり」は忌むべきものとされてきたのである。

一般論としてあるいは常識的な思考からすると将来のことを見据えて計画的にした方がよいように思われる。

 

当たり前の話だけれども、先のことは分からない。明日にでも死んでしまうかもしれないし、100歳まで生きるかもしれない。一流と言われる会社に勤めていて順調にいっていても倒産することもあるしリストラされて首を切られることもある。

人生設計通りに行くことなんてないし、そもそも「人生設計」なんて必要なのか疑問符が付くところである。

 

僕の偏った価値観に基づく考え方ではあるが、人生なんてほとんどが行き当たりばったりで十分であると思っている。

上手くいくときもあれば失敗することもある。人生なんてその繰り返しである。

 

人生設計的なものを作ってしまうと、その枠組みにとらわれて選択肢が狭まってしまう。あるいはその設計通りにいかないと敗北感に襲われることになってしまう。

自分の未来をあらかじめ予測して、それに沿うような行動を取るなんてことは僕からすれば全く面白くない。

 

面白いかそうでないかで人生を決めるなんて不謹慎だ、と良識のある人には叱られそうだが、僕は面白くない人生なんてクソだと思っている。

カネを多く稼ぐことは大切である、社会的地位を得ることも大切である、とちょっとは思っているけれども、それが面白くないものと感じられるのであれば、それらに執着するのはどうかと思う。

 

僕は「行き当たりばったり」でもよい、と言いたいのは先が見えないことそのこと自体を楽しんで、自分にとって面白いことを場面場面に応じて見つける生き方って結構ワクワクするんじゃないかと考えるからである。

決して無節操な生き方を推奨しているわけではない。

心配性な人は行き当たりばったりで生きていてはいつかは生活が困窮して破綻するのでは、と不安になる。確かにその不安感を抱く気持ちは理解できる。しかし、よくよく考えてみるとどのような生き方をしていても不安感は常につきまとうものである。僕たちは漠然とした不安を抱えながら、それを手なずけながら生きていくほかないのである。

 

僕は他の人たちに「行き当たりばったり」で生きていけ、と押し付けるつもりは全くない。そんな無責任なことはしたくない。

僕自身は行き当たりばったりな生き方をしていくつもりだけれども、そのことを放っておいて欲しいだけなのだ。その時々、場面に応じた楽しさを見つけていけば、行き当たりばったりでも何とかなると確信している。

ビンボー生活を続けることになるかもしれないけれども、幾ばくかの「自由」を手にすることができればそれでいい。何とか生き延びることができさえすれば万々歳だ。