高校や大学を出てすぐに正社員として勤め、結婚し、持ち家を所有し、老後は年金で悠々自適、という生き方がモデルケースになったのはそう遠い昔の話ではない。
均質的で画一的な生き方を強いられる社会は健全ではない。
初出 2017/6/20
人の生き方は千差万別である。
どのような生き方を選択するかは人それぞれの自由であり、他者にとやかく言われる筋合いのものではない。
何を当たり前のことを言っているのか、と思われるかもしれないがこの当たり前のことが蔑ろにされがちなのである。
僕たちは幼いころから学校教育を通して「~してはならない」とあるいは「こうあるべきだ」といった類のことを強いられている。同時に親の価値観の強要にもさらされ続けている。
確かに社会に出てからスムーズにその一員となるためには最低限のルールやマナーを身に付ける必要がある。場面に応じた挨拶や言葉遣い、立ち居振る舞いなどはどんな職業に就いていても必要なものである。
自分がどのように生きていくか、どういったことに重きを置くかといった価値観・人生観はひとりひとりが自由に形作っていくものである。
仕事中心の生き方を選んでも良いし趣味三昧の日々を送っても良い。カネ儲けに邁進しても良いし、家族や友人との関わり合いを大切にしても良い。
今は生産労働人口の8割以上の人たちが雇われて働いている。会社員(僕は労働者と呼ぶべきだと思うが)中心の、会社員がマジョリティの社会となっている。
そうなれば、大抵の人たちは雇われて働くことが当たり前との認識を持つことになる。雇われて働いている人たちの多くは自分の働き方や生き方に疑問を持つことなく、さも当然のことだととらえることになる。
どっぷりと会社に依存した状態が続くと、自分の生き方が「正しい」と思い込むようになる。
サラリーマンが自分の生き方こそが正しいと思うことは構わないし、それは自由である。なにせこの社会のマジョリティなのだから。
僕がなんだかなぁ~、勘弁してくれよ、と思うのは自分が信じる「正しさ」を押し付けてくる輩がいることである。
僕はサラリーマン的生き方を拒んでいる。傍から見ればフラフラとしている。決して真っ当といわれる生き方をしていない。
さすがにこの歳になれば、正面切って僕の生き方を否定されることはない(肯定されることも滅多にないけれども)。
若い頃はそうではなかった。例えば、僕が公務員を辞めようとしたとき、当時付き合っていたガールフレンドは僕を強く詰り、母親は強硬に反対した。僕がこれ以上こんな仕事はやってられないといった思いは無視されて、「正しさ」の押し付けをされたのである。
フリーランス的な働き方を選んだときに、一部の知人・友人は僕から離れていった(ついでにガールフレンドも)。
今も交友が続いてる友人連中は自分の「正しさ」を僕に押し付けず、僕の生き方を受け入れてくれた。
自分の正しさを押し付けようとする人たちは、その行為を悪意によってなしているわけではない。殆どが善意からである。しかし、その善意が他者を雁字搦めにし苦しめるという想像力を欠いている。
自分の正しさを押し付けたがる人たちは狭量であり、視野狭窄に陥っていて、そのことを自身で気付いていないのである。
絶対的に「正しい生き方」なんかこの世にはないのだ。
正しい生き方を国家が決めるなんてことがあってはならない。そんな社会はディストピアそのものである。
正しい生き方を何となく「世間」が決めて、それに従わないと肩身が狭い思いがするような社会なんて息苦しくてたまらない。
死の間際になって、なんとなく良い人生だった、そこそこ楽しめた人生だったと思うことができれば、それが自分にとっての「正しい」生き方なのである。