「個の自立」と言えば聞こえはいいが、要するにひとりでこの世に向き合えという強者の論理である。人は古来から共同体を形成し、その中で助け合いながら生きてきた。この様々な共同体を破壊し、拠り所を失ったのが今に生きる僕たちである。
強者の論理が正しいのか、共同体の論理(弱者の論理とも言える)が正しいのか、僕には分からない。どちらが生きやすいのか、を判断基準にするほかない。
初出 2017/5/30
僕たちは子どもの頃から「自立」を強いられる。
自分ひとりの力で生きていけるようになれと言われ続け、人に頼ってはいけないと刷り込まれる。
資本主義的なイデオロギー、特に新自由主義的価値観の下では人はみな個人単位に分解されて、個の力を頼りに生きることが善だとされる。
何事も個人の責任に帰せられてしまうのである。
個人の欲望の充足こそが生きる目的だとされる社会では自己責任論が跋扈する。また、自己決定権を尊重した社会では自己決定に基づく行為の結果については己ひとりがその責任を負うことになる。
これはまさに強者の論理である。
人は支え合わなければ生きていけないという「人の弱さ」を無視した傲慢なものの考え方である。そこには浅い人間観しか見いだせない。
自己決定権や自己責任ばかりが問われる社会では、いわゆる普通の人たちは自分の居場所を喪失し、漂流し続けることになる。
自己決定や自己責任論は単なるひとつのイデオロギーに過ぎない。それも程度の低い、タチの悪い粗悪なイデオロギーである。
人は地域や学校、職場等の中間団体に根を張って生きてきた。相互扶助というセーフティネットがあってどうにか生きてこれたのである。
近代化(特に欧米社会的な)は人々を中間団体から引きはがし、個を国家や社会と対峙させることを意味する。人々の拠って立つ足場を脆弱にしたうえで大きな存在である国家や社会にむき出しの個をさらすことになったのだ。これでは人々の心の平安が脅かされ、生きづらさを抱えることになる。
僕もかつては自己責任・自己決定イデオロギーに毒されていた。
自分ひとりの力で何とかしなくてはならない、人に頼ってはいけない、と思い込んでドツボに嵌っていった。
特に自営・フリーランスで仕事をしているときは自己責任論のドグマに侵されていたように思う。仕事上のネットワークの構築には力を注ぎ仕事の上での助け合いはしていたけれども、生活全般での困りごとや精神的な疲労といったことについてはなかなか相談することができなかった。ただ、僕には3人ほど相談できる人がいて、僕が切羽詰まったときにはSOSを出すことができたので、何とか危機を脱することができたのである。
何度もこのブログにも書いているが、僕は40歳を過ぎたときに(前述の「切羽詰まったとき」)にキレて今までの生き方をリセットすることにしたのだ。
この時にそれまでに僕の行動様式を縛っていた自己決定・自己責任イデオロギーから解放されたのだ、と今にして思う。
自分ひとりでできることなんて大したことはない、何でも自分ひとりでやることはない、何でもかんでも自分ひとりのせいにするのはやめようといった考え方ができるようになったのである。
僕にできることなんてたかがしれている。そう思えるようになって僕は生きやすくなった。
自分ができること、できそうなことだけをやる。自分が絶対に嫌だと思うことはしない。このようにシンプルなものに自分の行動様式を決めただけで、仕事をすることが楽しくなり、未来に対する希望を抱くことができるようになった。
自己決定・自己責任イデオロギーから解放されたことによる良い作用である。
「自己決定」「自己責任」イデオロギーから解き放たれると「真っ当に生きろ」という同調圧力から逃れることができるようになる。
ただし、それは僕のようにダメ人間になる、という副作用を生じさせることになるかもしれない。
僕はダメ人間だけれども、自分の存在価値を疑っていないし、自己肯定感を持ち続けている。
何だかつらつらと自己弁護ばかりを書いてきたようだ(実際、自己弁護に他ならない)。
窮屈な自己責任・自己決定イデオロギーに侵されるよりも、それから逃れて自己肯定感を毀損されずに生きていった方がいい、と僕は強く思っている。