希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「やればできる」、これは時として人を追い込む言葉であるという件

僕たちは往々にして相手に対して「やればできる」と鼓舞してしまう。

また、誰かから「やればできる」と言われて、解決すべき課題に当たった経験があるだろう。

何らかの課題や障壁にぶち当たり、逡巡している人に「やればできる」といった類の言葉をかけることは悪いことではない。僕たちはそう思い込んでいる。

 

わりと気軽に口にしてしまう「やればできる」という言葉には落とし穴があり、時には人を追い込んでしまう魔力のようなものが備わっている。

「やればできる」といった物言いの前提には、ある問題を解決するために「やらなければならない」「やって当然だ」というメンタリティが横たわっている。

困難な出来事に遭遇し、途方に暮れている人に向かって「やればできる」といった類の言葉を気軽にかけるのは無責任である。そこには悪しき精神主義・根性主義・努力至上主義といったものが見え隠れしている。

確かに困難なことに直面している人に、「一歩を踏み出せ」と言って励ます行為は正しい。一歩を踏み出さなければ何事も起こらない。やる気を出させなければ問題解決には至らない。逡巡している人に対して最初の一歩を踏み出すことを促すために「やればできる」といった励ましは有効な場合が多い。

 

しかしながらである。

僕は「やればできる」という物言いが好きになれない。

やってみてできることがあれば一生懸命にやってみてもできないこともある。当たり前の話だ。

やる前からこれはできないと諦めてしまい何も事を起こさないのは問題である、と一般的にはそう思われている。

一生懸命に事に当たり結果が伴わないことなんて山ほどある。むしろ結果が出ないことの方が多い。その際に努力の量が足りなかったからダメなんだとかいった類の物言いで相手を非難することがある。僕はこの手の精神主義的なものが嫌いなのである。

 

僕は「やってもできない」といった諦めも時には必要なのではないかと思っている。その諦めを根性なしと非難する権利は誰にもないとも思っている。

「やればできる」と言って、勉強が苦手な子どもに勉強を強いたり、達成が難しい仕事を無理やり強い続けたりしているのではないか。

過大な目標設定をして、それができないような奴はダメだ、成し遂げようと死に物狂いで努力しないような奴はダメだといった「やればできる」教を押し付けて、相手を追い込んでいないかの思慮が欠けているような気がしてならない。

 

「やればできる」的なものは人が成長する上で必要なものであるだけに、この言葉の取り扱いはとても難しい。きちんとしたバランス感覚をもって用いなければならないものである。

「やればできる」といった類の言葉は時には人を鼓舞し、時には人を追い詰める。このことを十分に斟酌しておかなければならない。

言葉というものは魔力を持っているということを僕たちは心しておく必要がある。

「やればできる」もそういった種類の言葉のひとつである。