希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

一見役に立たない知識こそが実は大切であるという件

僕たちは何のために学ぶのか。

この根源的な問いに対しては明確な答えはない。

功利主義的に答えれば、知識を得ることあるいは学歴を得ることによって経済的な豊かさを獲得するため、ということになる。仕事に役立つ知識を得ることによって他者に比べて優位性を確保し専門性を得て相対的に優遇された処遇を手にするのである。

資本主義体制下ではカネを稼ぐ能力が高い人が社会的な威信を得ることになる。様々な知識を得るために学ぶという行為はカネ儲けのため、といった身も蓋もない結論が導かれる。

 

仕事のために役立つ知識を得ること、カネを稼ぐために有利な専門性を身に付けることが学ぶ意義だと言われたら、僕はそれに対して強い違和感を覚える。

昨今、経済界は大学(時には高等学校にも)に対して自社の利益の拡大に資するような学生を養成せよ、といった要望を出している。また、多くの大学はやれグローバル人材を養成するだの、国際人を作るといったスローガンを掲げている。大学という高等教育機関が経済界の下僕に堕しているのである。

何も僕はすべての大学に教養を身に付けさせろとか浮世離れした学徒を生み出せとか言いたいわけではない。職業教育は当然に必要である。この社会を構成し維持発展させる、社会の一員として己の役割を果たせるような「一人前」の人間を育む機能を有することが教育機関には要請されている。

 

もう一度冒頭の問い、人はなぜ学ぶのか、ということに戻る。

僕の個人的な考えだけれども、人は自分が何を知らないかを知るために学ぶ、あるいは自分が知らない森羅万象に対して向き合うために学ぶ、ということである。

学んだことの結果として、それが経済的利得を獲得できたならそれでいい。社会的威信の高い仕事に就けたのならそれでいい。ただ、これらのことだけを目的に学ぶということは何だか学ぶということの本義を履き違えているような気がしてならないのである。

 

人文科学系の歴史や倫理や哲学、神学、あるいは物理学や数学などといった知識を取得してもカネ儲けには直接はつながらない。だからといってそれらの学問は無駄なものではない。それらの知の体系は尊重されるべきものである。

一見して自分の生活に直接的に役に立たないように見える知識こそを大切にしなくてはならない、と僕は思う。

実学系の工学やコンピューター・サイエンス、経済学、経営学といった学問領域をマスターすれば高い確率でその専門性を活かして「良い仕事」に就ける。経済成長に資する何かを生み出せるかもしれない。だからといって「役に立たないように見える知識」を軽視して良いということにはならない。

社会の成り立ちはどのようなものなのか、現在の社会を分析すること、人が人として存在するのはなぜなのか、といったような根源的な問いに向き合う「学び」は時として実学的な学問よりも必要とされることがあるはずである。また、そのような「学び」、探求心を失ってしまえば、人は人でなくなる。

 

僕は人文系の学問や自然科学系の基礎研究といったカネにならない学問を軽視する風潮を危惧している。このような態度は知の劣化の表れだと思っている。

一見役に立たない学問・知識こそが大切なものである、「知の財産」であるということを、微小な声かもしれないけれども挙げ続けたい。