希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人はミスマッチを積み重ねて生きていくものだと観念しておいた方が良いという件

先に結論めいたことを言っておこう。

人生はミスマッチの連続であり、それを前提条件として生きていかなければならない、と。

 

高校や大学の進学先の選択、就職先の選択、配偶者の選択などなど僕たちは人生の節目に自分の行き先を選択しなければならない。

それらの選択が常に自分にマッチしたものであれば何も言うことはない。

しかし、実際問題として僕たちは選択をミスする。これは仕方のないことである。

一旦、ミスマッチをしたからといって元に戻すことはできない。自分がなした選択に責任を取らなくてはならない。また、元に戻そうとした場合、それによって被るデメリットを甘受する必要がある。

 

自分で選択して進学した高校や大学が自分に合っていないなんてことはざらにある。殆どの場合、何とか自分に言い聞かせて何とか適応してやり過ごすことになる。どうしても我慢ならないときは退学し、別の学校に入り直すことになる。

高校や大学の進学のミスマッチは若いこともありやり直しがきくことが多い。

 

就職先が自分に合っていないケースなんて吐いて捨てるほどある。その会社が自分にとって良いところかどうかなんて実際に働いてみないと分からない。働き続けていって、どうもこの会社は自分に合っていないぞ、居心地が悪いぞと気付くことは良くあることである。仕事に就く際にはミスマッチありきで考えた方がよいのかもしれない。

今は転職も珍しくないご時世だが、やはり一度就職した会社を辞めるのには勇気がいる。再就職先がまた自分に合わない可能性もあるし、そもそも再就職が首尾よくいくとは限らない。

サラリーマンを続ける限りは、「落としどころ」を自分の基準で(あるいは世間相場で)設定しなれればならない。

 

配偶者の選択については言わずもがなである。

僕は結婚していないので経験談は語れないが、忍耐を要することは想像に難くない。

 

このように僕たちが生きていくうえでミスマッチは付き物である。

人生とは度重なるミスマッチをどのようにフォローしていくかにその多くを費やすと言っても過言ではない。

しかし、ミスマッチを恐れていては全く前に進めなくなるのもこれまた事実である。

また、進学先、就職先、配偶者選び等でミスマッチを起こしても、そのことが即不幸になるかと言ったらそうではない。これが人生の不可思議なところである。

僕は就職に関してはたびたびミスマッチを来したけれども、無駄なことだったとは思っていない。自分の生き方を見つめなおす契機となったし、自分の価値観(かなり偏ったものではあるけど)を固める契機ともなった。

 

ミスマッチなく順風満帆に人生を送る人たちもいるだろうけれども、(僕の全くの独断だが)そういった人たちは「深み」のようなものがないような気がしている。自分の意に反した状況下で、自分がいかに振る舞うかを試行錯誤した経験があることがその人の深みを作るのではないか、と僕は思えてならない。

ミスマッチを引き起こしたのはすべて自分の責任であるから、その状況から逃げてはならない、責めはすべて負うべきという自己責任論に僕は全く与しない。

しかし、ミスマッチによって引き起こされた状況の中でもがき、悩み、試行錯誤することはその人の人間性を高めるきっかけとなり得る。また、そのように思い込むことによってミスマッチを積み重ねながらも、ほどほどの幸福感に満たされた人生を送ることができるようになる。

「思い込み」や「勘違い」が人のありようを良きものにすることも結構あるものだ、と僕は思いたい。