希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

勉強が嫌いなのは当然のことであるという件

世の多くの親御さんはわが子が勉強しなくて困り果てている。

別に教育ママ・パパではなくても自分の子にはきちんと勉強をしてもらっていい学校に入ってほしいと願うものである。昔の立身出世なんか望んでいなくて、そこそこで真っ当な生き方をして欲しいと願う親がほとんどである。

 

ところがどっこい、子どもたちは親の願いに反して素直に勉強なんてしない。ごく一部のできの良い(親から見てのものであるが)子どもは自らすすんで勉強するが、ほとんどの子どもは親や教師や塾の講師があれこれと手を尽くしてどうにかこうにかようやっと勉強に手を付ける。

 

僕もずっと思っていたが、「勉強」なんてクソつまらないものだ。

もともと勉強という語は明治時代に作られたものらしい。強制されるものというニュアンスが込められたものだ。未知の、知らない、新しい知識を得る行為は「学ぶ」ものであり「習う」ものであった。

人は誰でも知的好奇心を持っていると思う。自分が知らないことを学ぶことはワクワクする楽しい行為であるはずだ。しかし、勉強することは必ずしもワクワク感を伴わない。勉強=学ぶことではないのだ。

 

僕は以前にこのブログで学ぶことの楽しさ、その大切さについて書いたことがある。勉強以前に学ぶことや習うことの面白さを知り、そのことによって学び続ける態度を身に付けることが大切なのだという僕の考えを書いた。この考えは今も変わらない。学ぶことの面白さやワクワク感を知ることなしで勉強好きになるわけがない。さらに言えば、学ぶことが好きでありさえすれば、常に学ぶ態度を持ってさえいれば、お勉強なんてどうでもよい。

この社会で生きていくうえで実際に役立つ(あまり好きな言葉ではないが)のは学びによって得た何かであって、勉強によって得た知識ではないことが多い。

学ぶことで得たものが実際に役に立たなくてもその価値を毀損するものではないが、勉強によって得たものが何の役にも立たないことが判明すればその価値を失ってしまう。このことが学ぶことと勉強が似て非なるものであることの証左である。

 

子どもたちの学力低下が叫ばれて久しい(僕はそうは思っていないが)。自宅での勉強時間も減少傾向にあるという。

本当にそうだとしたら小手先の対策ではどうにもならないことである。

元々つまらない勉強をいくら強制しても子供たちが勉強に向かうとは思えない。勉強すればいい高校・大学に入れていい会社に入れて物質的に豊かな生活ができるなんてインセンティブはもはや無効化されている。勉強すればこんないいことがある、といった類のエサで子どもの心が動くはずはない。子どもたちはそんなに愚かではない。

 

一見勉強が嫌いな子どもや苦手な子どもが自然の中で遊んだりすることやアナログな実験なんかに目を輝かせることがよくある。学校で強いられる勉強はこの子どもたちの「目の輝き」を蔑ろにしている。確かに基礎学力は大切なものだけれども、勉強のベースとなるべき学ぶことの面白さを知らしめなければ無意味である。勉強のみを強制し続けていけばいつか「ごまかし」がきかなくなるときが必ず訪れる。学ぶ意欲を喪失してしまえばその傷は深く大きくなる。

勉強が嫌いであることはもう当たり前だとの初期設定で学ぶ意欲を持ち続けていられるような手を打つことしかない、と僕は思う。

学ぶ意欲を持ち続けるための特効薬的な手段はないかもしれない。

けれども、子どもたちの「目の輝き」を失わせないようにする手立ては幾らでもあるはずである。