希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

グローバル人材なんてバカでかい会社にとって使い勝手の良い労働者に過ぎないという件〈再掲〉

一時期やたらと「グローバル人材たれ」という言説が撒き散らされていた。

グローバリズムが進む資本主義体制下では労働者の待遇の下方均質化が進む。グローバル人材とは「安くこき使える」労働者に過ぎない。

 

初出 2017/4/18

 

僕の出身大学はやたらと「グローバル」を売りにしている。僕が在学中もその傾向があったのだが、昨今は度が過ぎているように思えてならない。私立大学は何らかの売りがなければ生き残れないと言われている。グローバルを売りにするのは最適な戦略なのか、僕には分からないが、なんだかモヤモヤとするものがある。

 

官民財界そろって「グローバル人材」を養成・育成すべきだとの言説が幅を利かせている。一時期ほどではなくなったにせよ、猫も杓子もグローバル人材がどうのこうのと言い立てている。

大学生の就活においても、特に大企業に採用されたい学生は自分がいかにグローバル人材になり得るのかを面接でプレゼンする、という茶番劇が繰り広げられている。

 

国境をまたいで事業を展開している多国籍な会社では自社の利潤の極大化のために「グローバル人材」を欲している。辞令ひとつで世界のどこへでも赴き、「国際人」になれという甘言を弄して根無し草にする。ゆくゆくは「世界標準」の処遇を強いてくるのは間違いない。今でこそ先進国出身のグローバル人材の待遇をそこそこ良いものにしているが、人材の供給量が増えれば途上国レベルに引きずられた待遇になる可能性が高い。世界をまたにかけたグローバル人材がもたらす売上・利益は大きいものになるが、その処遇は下方へ押し下げる圧力がかかる。つまりグローバル企業は莫大な額の搾取をするようになる。そしてさらに会社自体は巨大化していく。

 

グローバル人材とは、極端な言い方をすれば世界規模で織りなされる「搾取」をされ放題の労働者に過ぎないのである。グローバル企業にとって使い勝手の良い労働者のことをグローバル人材というのである。

グローバル人材=優秀な選別された人材という幻想がまかり通っているのを良いことに、使い勝手の良い、使い捨ての労働者をグローバル企業は囲い込んでいるのである。

グローバル人材と目された「労働者」たちは自分たちをエリートだと思い違いをしてはならない。ただ、世界規模でドサ周りをする労働者に過ぎないのだ。

 

多国籍企業に採用され働く人たちは程度の差こそあれ自分のことを選ばれた者だとの錯覚を抱く。ローカル規模で働く普通の労働者のことを見下す輩もいる。最悪の場合は自分が「労働者」であるという意識すら持たない者もいる。

その歪んだエリート意識を持つことはグローバル企業にとっては願ったり叶ったりのことである。グローバル企業はイナゴの大群のようなものである。コストの低い国々を駆け回り、利益の極大化を図る。同胞の生活向上のための事業という概念はなく、社会的な役割を果たすという意識もない。ただ、儲かればよい、自分の会社が大きくなれば良い。その尖兵、いや「駒」としてグローバル人材を使っているだけなのである。

 

僕はグローバル人材とされる人たちを貶める意図はない。自分がグローバル人材になれなかったルサンチマンを晴らそうとしているわけでもない。

やたらと世の中で「グローバル人材」を礼賛する風潮に違和感を持っているだけなのだ。

グローバル人材を何か特別なものでより優れた働き方だとの幻想を撒き散らし、グローバル企業という怪物をより肥大化させるだけになってしまわないか、と危惧しているのだ。

グローバリズムはグローバリゼーションという流れの中で出てきたひとつのイデオロギーに過ぎず、絶対的なあるいは普遍的なものではない。グローバリズムを絶対のイデオロギーとする流れは危ういものがあり、「国民国家」の理念を融解させてしまう危険性を有している。

 

繰り返すが、グローバル人材は「労働者」に過ぎず、ゆくゆくは均質化され、しかも搾取の度合いが極大化された「労働者」に過ぎないのである。

グローバル人材というものにまとわりつく幻想を取り払い、その本質的なものから目を背けてはならない。