希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「カネの亡者」は悪人ではないという件

カネ儲けにあくせくしている人、カネに細かい人、カネに汚いのことを疎ましいと思っている人たちは多い。カネのことを大っぴらに話すことは何となく憚られる。

カネは生活を営むために必要不可欠なものなのに鬼っ子的な扱いを受けることがある。

僕たちは未だにカネを賤しいものととらえるメンタリティを持っている。これは重農主義的なエートスの残滓である。

と、同時に人の評価基準をカネをどれだけ稼げるか、どれだけそれをストックしているか、というところに置いている。極言すれば資本主義体制を採用している社会ではカネを多く持った者が勝ちなのである。

 

資本主義体制下の社会ではカネ儲けに血眼になっている人たちは善なる存在である。

カネの亡者と目されている人たちは決して「悪人」ではないのである。そしてカネを持ち旺盛な消費活動をすれば、それは経済成長に資する立派な行為となる。カネを多く稼ぎ、沢山のモノやサービスを購入し、経済活動を活性化させる行為は資本主義体制を維持発展させる「立派な」行為なのである。

逆に僕のように経済成長至上主義的なものに懐疑的となり、必要最低限にしかカネを稼がず消費行動が低調な人たちは「悪」なのである。自給自足、半農半Xミニマリストといった人たちは資本主義の発展・経済成長を阻害する極悪人なのである。あくまで資本主義が絶対善というイデオロギーが正しいという前提での話だけれども。

 

なぜ、ニートやひきこもりの人たちが周囲の多くの人たちから忌避され時には排除されたりするのか。それはニートや引きこもりの人たちの人格の瑕疵を責めているのではなく(たまに責められたりもするけれど)、資本主義が絶対的に正しいという価値観と労働至上主義イデオロギーの双方に照らしてアウトだからである。資本主義的価値観と労働至上主義イデオロギーには強い相関関係がある。

ニートやひきこもりの人たちは消費はするが大抵はその活動は低調である。しかも働いていない、あるいは働きの度合いが小さい。つまり経済成長にほとんど寄与していないし、経済成長を阻害しているとみなされ、この社会では「役に立たない」人たちとの烙印を押されているのである。だから、ニートになったりひきこもりになったりする人たちが増えると、それらの人たちは罪悪視されるし社会問題として取り扱われるようになるのである。

 

他人を蹴落とし押しのけてカネ儲けをしている人たちには道義的・道徳的な非難が向けられることがある。しかし、そんなことは無意味なのだ。ただの羨望や嫉妬に過ぎないことも多い。

繰り返しになるが、カネの亡者になることは資本主義体制下の社会では決して「悪」なのではなく正しいこと、「善」なのである。

 

僕たちは程度の差こそあれ、カネを稼ぐ営為に心血を注ぎこまなければならない。そうしないと生活を成り立たせることができないからだ。今のこの社会の経済体制に順応するためには仕方のないことなのだ。

カネに縛られないためには、カネの持つ魔力に惑わされないためには自分なりの代替案を作り出さなければならない。その代替案はひとつではない。人それぞれの価値観や生き方に関わる問題である。

 

カネから逃れられるための確かな解決策があるのか、僕には分からない。

カネの亡者たちを横目に見ながら、彼らを殊更に敵視するわけでもなく、嫉妬や羨望を抱くわけでもなく、僕なりにこの社会を漂流するしかないと思っている。

今の社会システムの中では僕という存在は「悪」の存在だと心の片隅に置きつつ、僕だけの中で善悪の転換をしつつ、漂泊し続けていく。