僕は何事も結果論で語る人たちを信用していないし嫌いである。
ある結果に至るプロセスを分析し検討することは必要である。そのことによって次につながることもある。
しかしながら、そのプロセスの分析・検討と結果論とは似て非なるものである。
結果論を嬉々として語る人たちは、そういった行為が自分が知的であることの証左だと思い込んでいる。結果を「客観的に」「論理的に」語れる俺ってすごいだろうと周囲に自分の優秀さを誇示したいだけなのである。
僕はこれまでにこういった結果論を滔々と語る輩に遭遇してきた。
それがプロ野球の話だったり政治談議の類だったら害はない。
僕が社労士事務所を自営していて訳があって廃業したとき、あーだこうだ言う人が何人かいた。営業戦略が稚拙だったとか顧客へのフォローがなっていなかっただとか色々な声が耳に届いた。そういったことを言ってきたのは、はっきり言えば大したことのない人たちだった。彼らとは今は全く付き合いがない。
僕が事務所を畳んで打ちひしがれているときに、「気にすることはない、たまたまうまくいかなかっただけ、運がなかっただけ」と言ってくれたのはいわゆる成功している人だった。
物事をすべて結果論で語ることは楽なことであり無責任である。
ある結果がでてしまってからは後付けで何でも言える。一見客観的で論理的な言葉を吐くことができる。
結果が出る手前で予測を立ててこうなるだろう、とはなかなか言えないものであることは僕も承知している。しかしそのことをせずに逃げてしまっては真に知的で真摯だとはいえないように思う。
世に出ている評論家やコメンテーターといった人たちの多くは結果論のみを語っているように思えてならない。ひどい人になるとこういう結果が出ることは自分は分かっていた、といった物言いをする。この手の輩は信用できない。そういう人に限って事前に警鐘を鳴らすような知見を示してはいない。
僕は自分が嫌な目に何度も遭っているので、結果論でものを言うことを慎むように努めている。「そやから、言うたやろ」的な物言いはしないようにしている。
自分だけが高みに立って物事を語ることは愚かな所業であると思っている。
結果論で物事を語っても新たに何かが生まれるわけでもないし、良きように流れが変わるとも思えない。
たとえ傍から見て愚図で知的ではないように思われても、嬉々として結果論を語るような人間にはなりたくない。
それらしきことを結果論で語る人が知的であるようにみなされる社会はどこか歪んでいて間違っている。