僕は大卒だけど学歴エリートではない。
東大や京大といった伝統があり超難関大学の出身ではない。
僕はこれでも高校時代は京大や阪大を目指し、学歴エリートの末席に連なろうとしていた。生き方の選択肢が少なく、偏った価値観を有していたため、学歴エリートにならないと幸せになれないと思い込んでいた。
また、自分は学歴エリートとなるにふさわしい人間だと思い違いをしていたのだ。今となっては恥ずかしい限りである。
僕は高校2年生の後半頃から原因不明の体調不良になり(パニック障害やうつ病の症状に近い)受験勉強どころではなかった。この病気による勉強不足と自分の資質の限界から国立大学に落ちて意に反した私立大学に進学することになった。ただ、進学した大学の雰囲気が僕には合っていたようで、僕は充実したキャンパスライフを送ることができた。まさに「瓢箪から駒」が出たのである。僕は今でも出身大学に対する愛校心を持っている。
しかしながら、僕の学歴エリートに対するルサンチマンは暫くの間残り続けた。
上昇志向を有し、社会的地位を得ようと必死になって働いた。手始めに地方公務員の上級職として採用されて勤め、それでは飽き足らず独立して一旗揚げようとした。
結局は成功せず、心身共に疲弊し、40代を過ぎたころには放り出して今のようなダメ人間となった。
僕は社労士事務所を廃業して以降、様々な仕事に就いた。
倉庫や工場での単純作業、福祉施設でソーシャルワーカーをしたり、非常勤のケアワーカーもした。それらの仕事の殆どは学歴不問であった。
いつしか僕の学歴エリートに対するルサンチマンは消失していた。
逆に学歴エリートではないゆえに学歴不問の決して社会的威信の高くない仕事に抵抗なく就くことができたといえる。
これらの仕事に就くことにより介護業界の闇の部分に触れることができたし、単純作業に従事せざるを得ない人たちの実情に触れることもできた。
格差社会、あるいは階級の固定化等が確実に進行していることを肌で感じ取ることができたのである。
学歴エリートが何らかのきっかけでレールを外れた時にはとても辛いものなんだろうなと思う。
「そんないい大学を出て、そんな仕事をするのか」だとか、「いい大学を出たのだから、真っ当にならなければならない」といったプレッシャーを受け続ける。「日本一有名なニート」のphaさんは京大出身だがやはりこのようなプレッシャーを受けつつ、自分の生き方を貫いている。phaさんのようになるにはなかなか難しい。世間の同調圧力や常識に抗うことは骨の折れることである。
僕のような中途半端な学歴所有者でも、世間のプレッシャーはあった。
しかし、高学歴者の比ではない。
要はくだらないプライドをいかに捨て去るかがどうかだけの話である。学歴エリートとされる人たちはこの「くだらないプライド」をくだらないと思えないことの方が多いように思う。
もちろん、プライドは大切なものである。人としての矜持とか人として譲れないものがあるといった類の誇りは持ち続けなければならない。
けれども、良い大学を出たからこんな行動を取るべきとかこんな行動はとるべきではない、といった自分の行動範囲を狭めるプライドはやはりくだらないものである。
僕は学歴エリートになれなかったことを昔は臍を噛む思いであったけれども、今はそれで良かったと思っている。
一旦レールから外れても何とか生き延びることができているからである。
僕はさらにサバイバル能力を身に付けて、もっともっと生き延びようと地を這って生きていくつもりである。