希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

最近「面倒くさい」かどうかで物事を決めるようになってきたという件

近頃の僕の口癖は「面倒くさい」と「邪魔くさい」である。

人に言うと角が立つので、ほぼ独り言でぶつぶつと言っている。

本当に俺ってダメ人間なんだなぁ、とつくづく思う。

 

世の仕事の多くは面倒くさいことを平らにする作業である。

邪魔くさいことを嫌な顔をせずにすすんでしなければ、真っ当な社会人とはみなされない。バカ正直に「面倒くさい、だからしたくない」と言ってしまえば、その人は即アウトである。

面倒くさいことを引き受けて、その見返りに報酬を受けることが仕事である、とも言える。

 

僕のサラリーマン時代、フリーランス時代を振り返ると、面倒くさいことをいかに効率よく処理するか、ということばかりをしていたような気がする。

特にフリーランスの時は、その面倒くさいことの難易度が高くなればなるほどギャランティの額に比例していた(すべてがそうだとは言い切れないが)。

まあ、当たり前と言えば当たり前の話である。大概の面倒くさくないことは自分で処理する。自分で処理することが邪魔くさいようなことを、自称専門家といった類の人たちに丸投げするのである。それで世の中は回っている。

 

僕は真っ当な生き方、真っ当とされるレールから外れた生き方をするようになってからようやっと素直に「面倒くさい」「邪魔くさい」と言えるようになった。

まあ、実際には面倒くさいからやらない、といった物言いはしないけれども。相手の気分を害してはいけないので、違った表現方法を用いるが、「面倒くさいから嫌だよ」オーラは出している。

 

面倒くさいかどうかは全く僕の主観で決めている。僕は何でも屋的な仕事もしているが、当然に持ち込まれる案件は邪魔くさそうなことである。その邪魔くさそうなことでも、僕の肉体的精神的負荷がかからなさそうなものは僕にとって面倒くさいものではない。一見簡単そうなものでも、何だか嫌だなと感じるものは僕にとって面倒くさいものとなる。

仕事に主観を持ち込むのはいかがなものかと言われそうだが、僕はこの主観的な判断基準を大切にしている。これがフリーランスの醍醐味だと思っているからだ。

 

私生活においては僕は極力面倒くさいことはやらないようにしている。

ただし、人間関係を壊さない範囲においてではあるけれども。

信頼関係がある友人との関係においては当然に面倒くさいことのハードルは上がる。他方それほどでもない関係の人であれば、大抵のことが面倒くさいこととなり、僕の腰は重くなる。

僕は友人なんて多くいなくてもいいと考えていて、無理しないで付き合える友人が少しだけいれば十分なのである。

 

面倒くさいことはなるべくやらない、面倒くさいかどうかを行動基準にできる状況はとてもハッピーである。たとえビンボー生活が続いても、僕は今のような生活を続けていきたい。

面倒くさいことを多く引き受けることが成長につながる、という僕にとってはそれこそ「面倒くさい」言説がまかり通っているが、僕にはそんな成長や自己実現なんて無用の長物である。

面倒くさいと感じることが増えていくと、僕のダメ人間度がますます高くなっていくという一抹の不安がないわけではない。

でも、まあいいか、と。

そんな先々のことを考えるのは面倒くさいし。