「強きを助け、弱きを挫く」
今のこの社会を覆う風潮である。
社会の、構成員たる人たちの劣化である。
弱き人たちをバッシングして嬉々としている人たちが多くいる、ということに暗澹たる気持ちになる。
初出 2017/3/16
社会的に弱い立場に置かれた人たちに対しては配慮が必要であり、また人に値する生活を保障することは自明のことである。
貧困は自己責任という考え方は前時代の遺物である。
社会構造のひずみによって多くの弱者が生み出され、そのひずみを少しずつでも失くしていく営みを続けなければならない。「革命」や「大変革」「維新」といった大転換ではなく、漸進的な改革を着実に進めていく態度を保ち続けることが肝要なのである。右翼や左翼、保守・リベラル等のイデオロギーに関係なく。
社会的弱者に対するバッシングがひきも切らず起こり続けている。
典型的なものとしては生活保護受給者に対するバッシングである。ごく一部に過ぎない不正受給を殊更に取り上げ、さも不正受給が横行しているような印象を与えようとする。生活保護受給者が保護費をちょっとだけ遊興費に充てたりすると、けしからんと憤る。果ては生活保護受給者は「人間のクズ」だの「人生の落伍者」だのとのレッテル貼りをする。
弱者を叩くことによって留飲を下げ、優越感を抱き、自分の不満を解消するような人たちが少なくない数存在することに僕は暗澹たる思いがする。
社会的弱者だとカテゴライズされる人たちは殆どがこの社会の少数派に属している。
また、彼らはごく一部のケースを除いては政治的に劣位に置かれ、大きな声を上げることができない。
社会的弱者はふだんは目立たないようにしていて、バッシングに対する反撃を手控えている。反撃できるような基盤を持ち得ていない場合も多い。
特に生活保護受給者はうしろめたさを抱き、スティグマを刻み込まれていて息をひそめて生活している。
社会的弱者をバッシングする人たちは、彼らをいくら叩いても彼らから有効な反撃がないと確信しているから、執拗にバッシングをし続ける。
そのような輩は自分よりも強き者に対しては隷従し、対等なものに対しては何も言えないのである。人としての最低限の矜持を持たず、人として有していなければならない「やさしさ」や「思いやり」に欠けた人種なのである。
社会的弱者のような反撃することに対する自制が働いている集団を見つけて、それをバッシングすることはとても卑怯な行為である。端的に言えば、タチの悪い「弱い者いじめ」以外の何物でもない。
こんなことを言えば、「弱者権力」があるのではないか、という批判を口にする人たちがいる。確かに被差別部落や在日コリアン等の力のある団体が存在し、それらの団体の利権漁りや組織の腐敗もあるだろう。これらの団体が有する問題点に対しては批判も必要だし、問題点をなくすように働きかけることも必要である。しかしながら、弱者バッシングとこれらの問題を混同してはならない。影響力のある弱者権力的な組織があることを理由に弱者バッシングを正当化してはならないのである。
そもそも弱者が連帯し、ある組織を立ち上げたのは生存が脅かされたからである。人としての尊厳を踏みにじられたからである。結果として弱者権力が生まれたからと言って、社会的弱者が手を取り合い、組織化し、自分たちの声を大きくすること自体を全否定してはならない。
この社会に生きる大多数の人たちはちょっとしたきっかけで社会的弱者に陥る可能性を秘めている。ごく一部のエスタブリッシュメントやそれに連なる人たちを除いて、殆どの人たちは社会的弱者予備軍だともいえる。
社会的弱者に対するバッシングはまわりまわって自分の首を絞めることになる、という想像力に欠けている。
社会的弱者へのバッシングは卑劣な行為だとの社会的コンセンサスが成り立つ社会が健全で生きやすい社会である。