僕の母は時々「あのまま公務員を続けていたら・・」といったことを未だに言うことがある。それと学生時代の友人たちが今どんなに社会的地位の高い仕事に就いているか、といった類のことも言う。
母に悪気はないことは分かっている。自分の息子の不甲斐なさを嘆きたい気持ちも分かる。でも、「立派な息子」を演じることに疲れた僕からすれば、責苦にあっているような心持がして落ち着かない。
僕はいつの頃からか人よりも何かの分野で抜きんでなければならない、ということを自明のものとしてきた。飛びぬけることはなくても人よりは頭一つ分だけは抜きんでなければならないと思ってきた。
僕の両親はとりたてて教育熱心だったわけではない。こんな仕事に就けと強要したわけでもない。ただ何となく競争に勝ち続けなければならない、と僕が勝手に思い込んだだけなのだ。
僕は僕なりに競争に勝とうと努力をしてきた。
いつも他者と自分とを比較していた。
しかし、それは終わりのないゲームみたいなものであった。ある課題をクリアしても、また次の課題が表れる。時には優越感に浸り、また時には劣等感に苛まれる。
僕という人間がどうあるべきかという確固とした価値観なり目標なりがないままに、他者との比較ばかりをしていつしか袋小路に入っていったのである。このような状態がずっと続いて心のバランスを崩してしまい、生きる意味を見失いかけるという泥沼に引き込まれたのである。
ある時、僕は開き直ることにした。人からどのように見られてもいい、自分が楽しい・面白いと感じられる生き方をしようと。人と自分を比べても仕方がない、という思いに至ったのだ。社会的地位も富もいらない。雇われて働くことが苦痛ならば、そうではない働き方をしよう。人から「使えない」「役立たず」「怠け者」などと後ろ指差されようが、気にせずにマイペースで生きていこうと決心したのだ。
何度もこのブログに書いているように僕は今「適当」に「ゆるく」生きている。必要以上に働かないし自分が好きなこと面白いと思ったことを優先させている。そのためにはビンボー生活を余儀なくされるが、それを受け入れて、ビンボーを楽しむことにしている。
結局は自分の人生は自分だけのものなのだ。人からどうこう指図されるいわれはない。死の瞬間に「ああ、俺の人生はまあまあ良かった」と思えればそれでいい。人との競争に明け暮れる人生なんて僕からすれば不毛なものなのである。
僕の今の生きざまが正しいとは思わない。人さまに誇れるものでもないことは重々承知している。
ここだけの話だけれども、僕は未だに何事かを為そうという野心を捨てきれていない。しかし、野心はあくまで野心であって、何事かを為すこともなく人生の終焉を迎えても、「まあ、しゃーないな」という諦念もある。
またまたここだけの話だけれども、強くお勧めはしないけれども、僕のような生き方も結構面白いよ、と声を潜めて言いたい。
常に不安と隣り合わせだけれども、競争から降りてみて、人と自分とを比べることを殆ど辞めてみたら、生きることの面白さを感じることができるようになった、とまた声を潜めて言いたい。