希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

弱いことは悪ではない、善であるという件

今のこの社会では「弱いこと」は悪である、とみなされがちである。

競争に勝て、成長しろ、人に頼るな助けを求めるな、自己責任だ、といったように人を急き立てる。

真っ当な「社会人」とは正社員として勤めていて、常に成果を出して上司や同僚に評価され、「自立」している人たちのことだとされている。

会社に「役立つ」人間、誰かの役に立っている人間がまともな人間であって、僕たちは「役立つ」こととトレードオフで存在を許されている、というような歪なことになっている。

 

他人に認められてはじめて自分の存在価値がある。

強くなければ生きている価値はない。

これらの考え方はある一面においては真理である。

人は自分の属する共同体で何らかの役割を得てその役割を果たすことが自分のアイデンティティとなるという意味においては。

 

しかしながら、人は誰でも弱さを抱えていて不完全な生き物である。

人は神ではない。

人は自らの弱さを覆い隠すために様々な「システム」を作り上げてきた。そしていつしか人は弱い存在であることを忘れ(あるいはあえて忘れようとして)強さが大きな価値を持つ、と思い込もうとしてきたのである。表向きの強さを持つ者たちが「システム」の管理者となったのだ。

 

僕たちは幼いころから「強くあれ」と刷り込まれてきた。

弱きことは悪であると洗脳されてきた。学校というシステムの中で、あるいは企業社会というシステムの中で繰り返し繰り返し。

いじめが蔓延っているのは、これらの「強さ信仰」的なイデオロギーと無関係ではない。何らかの部分が弱い人たちを「異物」として、あるいは「異質なもの」として排除することに疑いを持たない。

相対的に弱い者はいつの世にも存在する。彼らは「差異」や「多様性」の中に包摂されて存在する、ととらえるべきであり、排斥の対象としてとらえるべきものではない。

 

ホモ・サピエンス(現生人類)以前に棲息していた旧人類は肉食獣の捕食の対象だったという。ホモ・サピエンスは道具の発明や火の使用、群れをなして生活することによってその捕食の脅威からどうにか逃れてきた。

いわば人類とは他者と助け合ってしか生きていけない「弱い」生き物なのである。

 

今の世の中、自分がいかに「自立」しているか、いかに競争に勝ってきているか、いかに稼ぐことに長けているかを誇っているバカがあまりにも多い。

自分の「強さ」を誇示する者は狭量であり視野狭窄に陥っている。

そして、自分の強さを誇示して憚らない輩はいざという時(危機的状況に陥ったとき等)、脆さや弱さを露呈するのである。一方、自分の弱さを自覚している者はいざというときにうまく切り抜ける智慧を持っている。あるいは周囲の人たちがその人に救いの手を差し伸べる。僕の全くの個人的な意見だけれども、全く外れているとは思えない。

 

僕は自分の弱さをしっかりとその内面に抱え持った人こそが真に強い人だと思っている。

自分の弱さを自覚すると他者に対して寛容になれる。

あるいは人と人との関わり合いの中で「ありふれた善意」を信じることができるメンタリティを持つことが強さなのではないかと思っている。

 

弱いことは決して悪ではない、という価値観がもうちょっとだけ広がれば生きやすい社会になるのになあ、と僕はつくづく思う。