希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

苦労話を嬉々としてする人は信用できないという件

このエントリーのタイトルと矛盾するが、僕はわりと苦労話を見聞きするのが好きである。

ただ、すべての苦労話が好きだというわけではない。自分が体験した事実を淡々と述べた苦労話に好感を持つのである。そして自分が経験したことを苦労と感じていないことが伝わってくるのならもっとよい。

一方、自分の苦労譚を誇らしげに語り、「若い奴はもっと苦労しなけれゃダメだ」的な言動をするような老害には嫌悪感を覚える。

 

一般的に人は自分の苦労譚を他者に語りたがるものだ、と僕は勝手に思っている。

その動機は様々である。後に続く人たちの参考になればと思ってする場合もあれば、こんなに苦労して成功した俺って凄いだろうと自慢したい場合もある。後者の場合は見苦しいし、聞く方もしんどい思いをする。だいたい、他人の自慢話なんて聞く価値はゼロである。自慢話をする者の自己満足に過ぎない。しかし、世の中には自慢話的苦労譚をメディアで語り散らす輩が多く存在する。一部の「信者」はそれをありがたがる。

 

僕が好きな苦労話は「失敗」したときのエピソードが面白いものである。いかにして失敗したか、その失敗をどのようにして乗り越えたかがとても参考になるのである。

人が生きていくうえで成功よりも失敗の数の方がはるかに多い。その失敗エピソードを忌憚なく語る人は信用できる。

ところが、この世に流布している多くのサクセス・ストーリーは失敗の部分を隠蔽し、あるいは美化している。ひどいものになると成功者を神格化している。

 

苦労なんてしないに越したことはない。ある目的の遂行のためのプロセスを苦労と感じている時点で終わっているともいえる。本人は苦労と感じていないのに、周囲が「苦労した」と勝手に後付けをしている場合も多い。

 

僕が嫌だなあと感じるのは殊更に美化した苦労話を嬉しそうに話し、そのうえ苦労をしろと押し付ける「老害」の存在である。そんな輩はごまんといる。

この手の輩が精神主義や根性第一主義を蔓延らせているのだ。

苦労なしに人格の陶冶はない、といった類の根拠の無い妄言を撒き散らしている。

 

僕はそろそろ苦労話をしてもよい年齢に近づいている。はっきり言えばオッサンである。

僕は苦労話なんかを誰かにする気はサラサラない。そもそも僕は今まで苦労だと感じた事柄はないのである。

この事実にちょっとだけ淋しさを覚えるけれども、若い人たちに煙たがられるのも嫌なので、まあよしとすることにしよう。