「正義」の名のもとに夥しい数の人たちが命を奪われてきた。
絶対的な正義などこの世に存在しない。
初出 2017/2/9
僕たちはついつい「正義」を前面に立てて自分の考えを押し通そうとする。自分の「正義」が絶対的に正しいものと疑いもせず、他者を抑圧しようとする態度がいかに傲慢で反知性的なものか思いも至らずに。
小田原市の生活保護の不正受給抑止目的のジャンパー着用の件で、件の職員たちが「正義」を前面に押し出していたことに僕は不快感・違和感を抱いた。
生活保護の実務を法令に則って誠実に行うことが関係職員がなすべきことである。そこに正義云々が入り込む余地はない。市役所の職員たちが正義というものを持ち出すこと自体傲慢であり、さもしいことである。
不正受給自体は悪いことではあるけれども、行政の担当者が自分を正義だとし、不正受給者を一方的な悪だと断罪するような態度は権力を行使する者の本音がこぼれ出たものであって、とても不快である。全体の(この場合は地域の)奉仕者である公務員だという立場をわきまえていない暴挙である。
かつて「正義」の名のもとに夥しい数の人たちが命を奪われたことは歴史が証明している。
正義を盾にしたイデオロギーほどタチの悪いものはない。それに対して抵抗すれば「悪」のレッテルが貼られ、「悪」に属するとされる人たちを排除・抹殺することが正当化される。
正義は人を抹殺し人を抑圧する都合の良い道具となるおそれが大いにあるのだ。正義が持つ恐ろしさや危険性を蔑ろにしているととてつもない害悪を僕たちにもたらす、ということを肝に銘じておかなければならない。
僕たちが「正義」を口に出すとき、その正しさを妄信しているときもあれば、その正しさに疑いを持ちつつも「正義」だとしておけば相手をやり込めるのに便利だと思っているときもある。
正義だと妄信すると思考停止状態に陥る。
正義を「道具」だとして用いると、そこには邪なものがある。
権力者、特に独裁者は「邪悪なもの」を正義で覆い隠すことによって、「正義」の名のもとに人々を抑圧してきたことは、これもまた歴史が証明している。
絶対的な正義、普遍的な正義なんてこの世には皆無なのである。
人は所詮は自身に都合の良い「正義」をでっちあげて、そのでっちあげられた「正義」に後付けであれこれと理論付けを施して、さも絶対の「正義」だと見せかけているに過ぎない。僕たちはその見せかけの正義に縛られている。
あるいは多くの人たちは「見せかけの正義」だと心のどこかで感じながらも、それに束縛されることに快楽を得ているのかもしれない。
「正義」なんて胡散臭いものである、と僕は常々思っている。
しかしながら、時としてその「正義」に陶酔してしまう自分がいる。
「正義」には人を狂わす何かが備わっている。
「正義」は魔物である。
「正義」は媚薬である。
僕は「正義」のもつ魔力に常に対峙していきたい。