仕事なんて人生のほんの一部に過ぎない、と僕はこのブログで何度も述べている。この考え方が絶対的に正しいとは思わないが間違っているとも思えない。仕事=人生だと思い込まされていると生きづらさが増幅する。
初出 2017/1/31
人は生活を成り立たせるためには何らかの形で働かなければならない、というのは自明のことである。
自分の(あるいは家族の)食い扶持の分だけ稼げばあとは何をやっても自由だというわけである。
ところがそんな「ゆるい」働き方や生き方が世間一般で認められているかというとそうではない。
仕事一筋人間とか仕事=人生みたいな働き方をしている人を賞賛する風潮が根強く残っている。人の価値を仕事ができるかどうかで評価し選別している。仕事に重きを置かない人たちをどこかで白眼視し異端者扱いしている。
時々、仕事以外のことに、例えば社会活動や地域活動や趣味等に没頭している人たちを「新しい生き方」的なものとしてメディアが取り上げることがある。それらはあくまでも例外的なものであるからスポットライトが当たるのであって、世の中の主流ではなく傍流であることに変わりはない。
今でも人生の大半を仕事に費やす、という生き方が多数派を形成しているのである。
僕はダメ人間であり、マイノリティに属する人間である。
仕事は人生の一部でしかないと考えている。
そんな僕からすると、仕事命、仕事=人生という人たちは働くしか能のない人たちだと思えてならない。
しかしながら、「働くしか能のない人」がそれこそ寝食を忘れて働き詰めに働いてくれたおかげで今の物質的な豊かな社会ができたのである。僕はその恩恵を受けているのは間違いない。したがって働くしか能のない人たちの生き方をとても否定することはできない。ただ、そのような生き方や働き方を僕のような奴に押し付けないでくれ、とだけしか言えない。
ここでこのような反論がくるだろう。自分の仕事を天職と捉えて仕事に情熱を注ぎこむような生き方を否定するのかと。
もちろん僕は否定しないし、そのように生きている人たちに敬意を表する。ただ、天職といえる仕事についている人たちはレアケースである。殆どの人たちは自分の属する会社や役所等の組織の中で仕事を割り振られて、その仕事を何とかこなしていっている。要するにほとんどの人は賃労働に従事する労働者なのであって、労働者が仕事命的な働き方や生き方をするのはいかがなものかと問いたいだけなのである。伝統工芸の職人や芸術家などとは同一視してはいけないのだ。
世の中に数多ある仕事の殆どは誰にでもできるものである。代替可能なものである。そのような仕事に一生の殆どを費やすということに僕は割り切れない思いを抱いている。
仕事は生活のためだと割り切って、仕事以外のことに仕事に注ぎ込む以上の情熱をもってあたってもいいのではないかと思うのだ。
その「仕事以外のこと」はどんなものでもいい。自分の好きなことを自由に自分のやりたいようにやればいいのではないか。世間でもそれをもっと認めるような風潮が生まれてしかるべきである。「働き方改革」もこの視点で論議してほしい。仕事だけが人生的な考え方のままでは小手先の改革に終わるだけとなってしまう。
仕事だけの人生なんてつまらない、と僕は強く思っている。
傍から見てくだらない、取るに足らないようなことでも本人にとっては情熱を注ぎこめるようなことを見つけて楽しく面白くそれに注力する。そのような生き方を受け入れられる社会になれば、人それぞれの「居場所」が確保できる生きやすい社会になるはずである。