希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人の「やる気」を引き出そうとすればするほどその人はやる気をなくすという件

殆どの人はやる気を出せと発破をかけられればかけられるほどやる気をなくしてしまう。これは「やる気のジレンマ」とでも言うべき現象である。

大体がやる気なんてものは内発的動機づけがあってはじめて発揮されるものであり、人からやいのやいのと言われて出てくるものではない。

 

学校の教員にしても会社の経営者や上司にしても、この「やる気のジレンマ」を理解していないことがあまりにも多い。それどころか「やる気至上主義」に陥ってしまうケースがとても多い。

安易に「頑張れ」とか「やる気を出せ」といった類の叱咤激励を繰り返し、その相手のやる気を失わせていることがなんと多いことか。

 

無能な上司ほど「やる気至上主義」に毒されている。

無能な教師ほど「やる気至上主義」に陥っている。

「やる気至上主義」は悪しき精神主義、根性主義以外の何物でもない。

 

僕は働きだしてから何人もやる気至上主義にどっぷりつかった無能な上司に遭遇した。僕が雇われて働くことに強い拒否感を抱くに至った原因のひとつがこれらのバカな上司に出会ったことによるものである。

「やる気を見せろ、そのためにももっと残業をしろ」とか「一生懸命さが見えない」といったバカなことを言い、僕のやる気を身ぐるみはがすように削いでいったのである。

 

元々学業にしても仕事にしても一定の結果を出せば事足りるものである。懸命に汗を流したことが尊いというものではない。

やる気を見せるが結果が出ない者とやる気は表に出さないが結果は出す者がいれば、後者の方が高い評価を得るべきである。

やる気は見せるが無能な人が集まる組織に未来はない。

 

僕はやる気そのものは評価に値しない、と言いたいわけではない。当然に何事を為すにもベースにはやる気は必要なものである。しかしながら、やる気を評価基準にしてそれが度を超すと目も当てられない状況になってしまうと言いたいだけなのだ。

精神主義が蔓延すると悲惨なことになるということは戦前の軍組織を見れば一目瞭然である。

 

僕がやる気至上主義的なものに強い嫌悪感を抱くのは、僕の資質によるものであることは否定できない。僕は子どもの頃から勉強にしてもスポーツにしてもやる気を表に出すことを好まなかった。努力しているところを他人に見せずに、涼しい顔をしてさらりとこなすことが格好いいと思っていたのだ。僕の美意識である。今もこの美意識を持ったままでいる。

だから、「やる気が第一」とか「やる気を見せろ」といったことが重視される集団にはなじめないのである。

 

やる気至上主義がやる気のジレンマを生み出すという事実は社会心理学の領域や組織論等ではほぼ定説のようになっている。僕の個人的な見解とも一致している。

しかし、世間では相変わらずやる気至上主義に傾きがちである。一見やる気がないように見える人は低い評価を受け、時には集団から排除されることもある。他方で能力はないのにやる気を見せることだけは上手い者たちが高い評価を得る事態が頻発する。

この傾向が続く限り、真に能力のある人が日の目を見ないことになるおそれが多々あるし、この社会はますます停滞すると思えてならない。