僕はこのブログでずっと雇われて働くことはとても苦痛だと言い続けてきた。僕が特別な価値観を持っているからではなく、労働の持つ本質的なものである、とも言ってきた。
労働が全くの苦役であるならば話は簡単である。
しかし、働くことによって得られる充実感があり、満足感があるところから話は少々ややこしくなる。
「労働の喜び」というものは資本主義体制を維持するためには必要不可欠なイデオロギーである。労働が全くの苦役に過ぎないのであれば、いつかは資本主義的イデオロギーに齟齬が生じ、体制は崩壊する。
働くこと喜びがあるはずだ、働くことに喜びを感じよ、と「上から」一方的に押し付けることはできない。勤勉は美徳だとの価値観を広げることはできるけれども、個人の信条や価値観を塗り替えることなんてできはしない。
この資本主義体制が続いていること、労働者がなんだかんだ言っても働き続けているのは、「労働の喜び」的な何かが労働に内在しているのである。
労働は「賃労働」とその他の労働に分けて考える必要がある。
農作物を作る労働、自分で育てた農作物はすべて自分のものとなり、それらを売ったり自家消費する自由がある労働は会社に勤めて賃金を得る労働とは全く違うものである。余人に代えがたい商品を作る職人もそうだし、芸術家・作家・アスリート等もそうである。
賃労働という形を採らない「仕事」をする人たちには労働の喜びがあることは理解できる。
アスリートや芸術家、職人等の「仕事」と雇われ人の「賃労働」をごちゃまぜにして、「働くことの喜び」云々を捉えるのは明らかに間違いである。
雇われて働く労働者は会社の命ずる職場・職種に就いて、建前上は対等の立場で締結した労働契約による労働条件のもとで労働力を会社に提供して賃金を得ることになる。労働者は会社によって搾取される。搾取無き賃労働はありえない。
どこで働くか、どんな仕事をするかは労働者は自由に選択できず、賃金は会社の業績が良くても抑制されてそんなには上がらない。元々賃金は会社の利益を分配されるものではない。労働者の衣食住の確保をして次の一か月も働ける状態にするための、労働者の再生産(家族を維持する)のための、技術革新に対応する教育費の投資のための、それらに相当する額が支払われる、生産関係で決まるものである。
つまり、労働者である限り、いくら働いても常にカツカツの生活を余儀なくされるということだ。
サラリーマン(労働者)が職場を変えたいと思う理由として人間関係があがってくる。人間関係が良ければ、その職場に留まり続けることができる、と多くの人はそう考えている。
仕事をしていて喜びを感じるのはチーム・部署である目標を達成したときの達成感であることが多い。
いずれも「労働」の本質的なものではなく「外部」の要因に基づくものである。仕事そのものの面白さというよりも、良質な人間関係やチームワークという労働の「外部」にあるものに対する喜びである。
つまり、仕事自体に面白みはなくても、それ以外の代替物によって喜びを得て、明日以降の労働意欲に結び付けているのである。
僕の全くの個人的な考えになるのだけれでも、やはり「働くことの喜び」みたいなものはあるかもしれないけど、それは労働自体に内在するものではないということだ。労働自体はつまらなくて苦痛を伴うものである。
仕事によって自己実現をする、仕事にやりがいを持つことなんて本来はありえないことになる。労働はあくまで労働であって、そこに成長とか自己実現とかやりがいなんて介在する余地はない。
仕事に人生を捧げるなんて生き方は幾つかの例外(芸術家・アスリート等)を除いて、労働という形で何かに隷属し続ける一生だということだ。
とはいえ、大半の人たちは何らかの形で働き続けて、生活を成り立たせなければならない。
芸術家やアスリート、独立した熟練の職人、専門的なフリーランス等の形を採って働くことができれば「労働の喜び」を感じることができるかもしれない。
サラリーマン、労働者は自身が搾取される存在であることを意識し、そのうえで自律的に働くことで疑似的な「労働の喜び」を得ることができるかもしれない。労働の持つ残酷な本質から少しでも逃れることができれば、それで十分だと諦念することだともいえる。
「労働」、特に「賃労働」を根源的に突き詰めていくと救いがないように思えてくる。しかし、「労働」の外部で、人と人とのつながりを求めることによって、本質的な解決ではないかもしれないけれども、一筋の光明、救いが見えてくる気がしてならない。
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