希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「自分らしさ」って本当に大切なものなのかという件

人は誰しも世間のしがらみに縛られずに自由に好きなように生きたいものだと思う。

世に出て働くようになると、自分を押し殺す場面が増えてくる。我を通すと人間関係が壊れたり、仕事が立ち行かなくなったりする。

 

世に多く出ている自己啓発もので相変わらず人気があるのは「自分らしさ」を大切にしろ、「自分らしさ」を見つけようなどといった「本当の自分探し」に類するものである。

多くの人たちは自分らしく生きていないことによってあれこれ悩みが増えて、自分らしさを見失っているからこそ実りのない人生を送っているといった言説である。

一見もっともらしい物言いではある。

人は皆それぞれ個性があり、それぞれに素晴らしい人生が待っているという。とても耳障りの良い言葉である。

 

僕はこの手の言説が苦手であり、はっきり言えば嫌いである。

そもそも「自分らしさ」とは何なのか、その定義が曖昧である。仮に「自分らしさ」なるものがあるとしても、それが大切なのかは甚だ疑問である。「自分らしさ」を至上の価値として、それを追い求める「自分探し」的な行為が果たしてその人の生き方を実り豊かにするのかも疑問である。

 

「自分らしさ」の前提には本当のあるべき姿が存在するという考えがある。今の生き方は本来の自分の姿ではなく、自分はもっと輝く存在であるべきだという妄信がある。

僕から言わせると単なる自意識過剰であり、傲慢である。現に顕れている自分が紛れもない本当の自分でありそれ以上でも以下でもない。

 

もし、今の自分に不満があり変えたいのならば、プロセスを踏んで一歩一歩階段を昇るしか手立てはない。それは地道なものだし時には辛いものである。

「自分らしさ」を表現したいのならば、周囲の人たちからある程度の評価や評判を得るしかない。

あるいは他者との関わりをすべて断ち切るしかない。

 

僕はこのブログで「好きなように生きたい」「自由でありたい」とは言っているが、決して「自分らしく」ありたいなどとは一言も言っていない。

「自分らしさ」という言葉に欺瞞や胡散臭さが潜んでいると感じ取っているからだ。

「自分らしさ」の中に独立独歩の気概が感じられず、絶えず他者の目を気にする小市民的小心者に過ぎないと思えて仕方がないのだ。

 

「自分らしさ」なんて幻想に過ぎないものである。

常に自分の頭で考え、群れることをせず、他者からの評価に一喜一憂などしなければ、「自分らしさ」なぞを超えた自分という存在が自然と確立される。

 

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