希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

強いリーダーなんて要らないという件〈再掲〉

僕は強いリーダー待望論に強い違和感を抱いている。

自分で決めることを忌避し誰かに決めてもらうことを良しとするメンタリティが嫌いだからである。

リーダーの良し悪しは強いか弱いかという単純な物差しで決めるべきものではない。

 

初出 2017/1/5

 

混沌とした世の中になってくると人々は強いリーダーを求めがちである。

確かに昨今のこの国のリーダーたちは不甲斐ないと見えるし、実際にその資質が疑われるケースが多発している。

僕は「強い」リーダー待望論に懐疑的である。

リーダーに強さばかりを求めると取り返しのつかない事態に陥るのではないか、と心配になるのである。

 

僕は「誰もがリーダー」なんて悪しき平等主義にも拒否反応を示す。

やはり、リーダーとしての資質を持つ人が人の上に立つべきだと考えている。

僕の個人的な意見なのだけれども、リーダーとしての資質は次のようなものだと考えている。

まずは社会的な弱者とみなされる人たちの思いや立場を理解できること。「共感」というレベルまでは要しない。自分が強者であることを自覚しつつ強者の目線のみでものごとを捉えないことである。

次に自分とは異なる意見や思想、立場の人たちを包摂し、時にはそれらの人たちの利益に資する行動を採ることができるような勇気を持つことである。一方的に自分の持つ考えを押し付けないことである。

 

上述のようなリーダー像は時として弱いリーダーと映るかもしれない。

しかし、自分の考えや理念をごり押しすること、特定のイデオロギーを普遍的な真理だとして人々に押し付けるような「強い」リーダーよりはよっぽどましである。

特定の思想、考え方のみが正しくて、それ以外のものは異端だとする狭量な態度は人々に不幸しかもたらさないことは歴史が証明している。

 

元々この国では「独裁者」を生み出さないようなインフォーマルなシステムとなっており、それを許さない人々のメンタリティが根底に存在する。

何も決められないことは問題であるが、強いリーダーの一存で誤った方向に行くことはもっと大問題である。

優れたリーダーとは多種多様な意見や考えを一旦受け入れて、場面に応じた解決策を選択する決断力を持った人だと僕は思っている。最適解を導き出す能力に秀でた人がリーダーたる者だともいえる。

 

どのような人がリーダーにふさわしいか、この問いに対する明確な答えはないように思う。

学校教育や社員教育で育まれるとは思えない。

仕事の場や学校で得た経験ももちろん必要ではあるけれども、それ以外の場での様々な経験で得たものがリーダーたる人の肥やしとなる、としか言いようがない。

歴史を学び、社会がいかにして成り立っているかを考察し、人と人との関わり方を経験して学ぶことなど、様々な知識と経験の積み重ねを経てリーダーとしての資質を備えるのである。

 

一見、「強そうに見える」リーダーには警戒すべきである。

強さ=器量ではない。

そして、強いリーダーに丸投げする態度は最も忌むべきものである。

強くは見えなくても、「支え甲斐のある」リーダーが最も適っているリーダーなのかもしれない。