ある人が生活に困窮しているときには生活保護給付を受けることができると目先の問題は解決できる。とりあえずの最低限の衣食住が確保できるからだ。
高齢者や障碍者を除いて稼働可能な人たちにとって生活保護を受けることのデメリットがある。就労の意欲を削がれるケースが多々あることである。昨今の労働環境を鑑みると低賃金で劣悪な労働条件の仕事に就かざるを得ない場合が多い。それならばしんどい思いをして働くよりもずっと生活保護を受け続けた方が良いと考えてしまっても仕方がない面がある。
稼働可能な人たちがなかなか「自立」できないジレンマが存在し続ける。
貧困に陥った人たちへの対症療法的な施策として、生活保護制度はある程度は有効である。最低限度の生活を保障して、命を長らえることができるからである。
問題は貧困の解消や格差の是正に資することができないのではないか、という点にある。
貧困に陥っている人たちを厳しく選別し、それらの人たちに現金給付を行うと格差が拡大する「再分配のパラドクス」という事態を招く。
つまり、ある人が貧困状態に陥るまで放置し、生活が極限にまで困窮してはじめて社会保障の適用(生活保護の受給)がなされる。その時には多くの場合ー例えば心身の病等によってまともな仕事に就けない状況に陥っているーことによって生活保護を受給しても、その状況から脱することができずに、最低限の生活を営むことがようやっとの状態に固定される。
今は仕事をしていてそこそこの生活を営むことができていても、病気や倒産・リストラ等によって職を失い、再就職ができなくなったら即貧困に陥ってしまう。女性の場合、特に専業主婦だった場合、配偶者と離婚して子どもを抱えていたら、やはり貧困状態に陥る可能性が高くなる。
確かに雇用保険制度はあるにはあるが、これは非正規社員ならば受給するためには一定の要件が必要となり、多くの非正規社員は対象外となっているのが現実である。
片親家庭に対する扶助制度もあるが、十分な額とは言い難い。
要するに社会のレールから外れると、食うに困るほどの貧困状態に陥らないと公的な支援は受けられないのである。
確かに「自助努力」はある程度は必要である。しかし、弱っている人たちに自助努力を強いるのは酷なことである。
現行の社会保障制度は正社員であることを前提として構築されている(しかもその内容は貧弱である)。
高齢、障害、失業のリスクに対する公的支援は貧弱ながらもある程度はなされている。これらに加えて育児に対する補助や住宅費に対する補助、子どもの教育に対する補助、失業者の公的職業訓練(その期間の生活保障)も手厚くする必要がある。これらのユニバーサルな対人サービスが絶対的に必要である。
これらの公的支援は個々の人たちの生活保障を行う、という点だけではなく格差拡大を抑制するという点においても必要なのである。また、現行の資本主義体制を維持するためにも、労働者の生活基盤の弱体化を防ぐ目的に適うものである。
今世紀初頭の小泉政権後の歴代の政権は社会保障制度の削減を政策目的に掲げている。
これは目先の損得に目がくらんだ愚策としか言いようがない。
前述のとおり、勤労者の生活基盤が危うくなれば現行の資本主義体制が危うくなることが理解できていないのである。新自由主義的な政策は庶民の生活基盤を破壊し、結果として資本主義の行き詰まりに至ることを理解できていないのである。
資本主義というものを突き詰めると(特に新自由主義を押し進めると)必ず格差の拡大と貧困が到来する。それらを是正するのが政治の役割なのである。社会保障政策は将来に対する投資なのである。
特に従来の「救貧政策」から「防貧政策」にシフトを移す必要がある。
人々が貧困に陥らないように様々なリスクに対応したセーフティネットの目を細やかに張り巡らせて、人々に「安心」感を抱かせなければならない。
生活に困った人たちが生活保護に至る前に様々な公的支援を受けられることによって負の連鎖から免れる、そんな社会を構築しないと未来はない。
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