希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

弱者の救済は強者による「恩恵」であってはならないという件

先進国では社会福祉社会保障制度による救済を受けることは固有の権利だとされている。仮に自分の生活が困窮したとしたならば、生活保護を受給することは当然の権利の行使となる。

しかし、未だに生活保護を受給することは「国に厄介になる」ことであり「恥」であるという意識が残っていて、そのことが受給者にスティグマを刻印することになっている。この国の支配者層はこのような意識を悪用して、社会保障費の削減を常に目論んでいる。古来から「政(まつりごと)」とは民の平穏・安寧を保つこと、具体的には持たざる者たちに対して人としての尊厳を保つ程度の生活を保障することである。過度の競争を強いて「働かざる者、食うべからず」として飢餓の恐怖を煽るような政策を採る政府・権力者は為政者としての資質・資格に欠けているのである。

 

弱者に対する救済は単なる恩恵なのではない。恩恵であってはならない。

生活に困窮する人たちが増えてくると社会が弱体化し崩壊する。

弱者の救済は共同体(国家・社会)を存続させるために必要不可欠なものなのである。

この視点は重要である。

国家による社会保障制度(公助)だけでなく、時には共助も必要となり、最低限の自助努力も必要となる。

権利の行使による個人の生活保障というだけではなく、僕たちが依って立つ共同体を維持し発展させるためにも弱者を放置していてはダメなのである。

 

人は誰でもちょっとしたきっかけで弱者になってしまうという事実を忘れてはならない。失業して収入が断たれたり、病気になったり、老いることは誰にでも起こりうることである。これらのきっかけを「自己責任」として突き放すのは容易いことである。ただの責任放棄である。

また、弱者を「厄介者」扱いし、上から目線で施してやるという態度も共同体の機能を弱体化させる。共同体の成員間で階層が生まれ、分断化され、連帯感を喪失するからである。

 

かつては社会保障社会福祉は国家による恩恵だとされていた。かつての救貧制度は貧困者を厳しく選別し、救済に値する者とそうでない者を仕分けし、救済に値しないとされた人たちを放置していた。

国家による恩恵なのだから、救済を受けるに値する者だけを助ければ良しとされていたのだ。

強者の恩恵による弱者の救済はこのような「選別」の論理による人の値踏みが行われることに大きな問題点・欠陥がある。

 

現行の我が国の弱者に対する救済制度は表向きは生存権を保障することを旨としている。しかしながら、内には強者による恩恵、人を選別する論理が潜行している。ちょっとしたきっかけでこの内なる論理が噴出する危険性がある。繰り返し起こる生活保護バッシングはその最たるものである。

 

生存権社会権といった権利は先人たちが血と汗を流してようやく獲得したものである。権利ばかりを主張するな、という俗論に惑わされてはならない。国家の論理に迎合してもならない。

自分たちが依って立つ共同体の維持・強化のためにも弱者の救済をなおざりにしてはならないのである。同時にいつでも自分は弱者となり得る、「明日は我が身」という意識を持ち続けることも大切である。

強者による恩恵の論理に絡め取られないためにも。

 

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