希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「画一化された」価値観ほどおそろしいものはないという件

僕たちはひとりひとり考え方やものの感じ方が違う。

人それぞれバックボーンが異なっているのだから当然のことである。

この社会は価値観の異なる人たちがお互いを認め合い支え合いながら共存していくものである。

僕がどのような価値観を持っていても自由であり、僕の生き方に不当な介入はできない。

 

僕の全くの個人的な見解なのだけれども、この国では多様化や個の尊重とかいった掛け声やスローガンとは反して人をひとつの価値観に染めたがる傾向があるように思えてならない。

 

僕がよくこのブログに取り上げる「労働」や「教育」を例にしてみよう。

労働の本質とはいかなるものか、については明確な答えはない。

生活のために仕方なくするものである、「苦役」である、自己実現の手段である、自己の成長のためになすことである、等々人によって様々なとらえ方がある。しかしながら、一般的な風潮として労働至上主義的なイデオロギーが大勢を占めている。少数派の意見として「働かない生き方」「怠けることは悪いことではない」等といったものが散見されるが、通常はこの手の意見は排除される。働くことは尊いこと、勤勉至上主義といったイデオロギーに与しない人たちは、世間から冷たい目で見られてしまう。

教育制度、特に義務教育は生徒を同一の価値観に押し込めるものと言ってもいい。良き国民、良き労働者を大量生産するシステムなのである。学校になじめない者は異端者である(時には異常者扱いされる)とみなされる。国家や会社にとって都合の良い「良民」を作り上げるための教育システムなのである。

 

画一化された価値観は国家や支配者層が押し付けるものとは限らない。すべてがそれならば分かりやすくて抵抗することも比較的容易い。

画一化された価値観の多くは「世間」で空気のように形成されるものが多い。だから厄介なのである。

正社員として会社に雇われる働き方が正しい、学校に通わなければならない、カネを多く稼ぎカネを多く持ったものが勝者である、といった類の価値基準は(絶対的に正しいものではないのに)何となくみんなが正しいと思い込んでいるものである。

 

価値観が統一された集団において、当該の価値観になじむ人たちはその集団内において居場所が確保され、生きやすくなる。その集団が比較的小規模でローカルなものであればまだ救いがある。もし、その集団になじめなければ、他の集団に移動すれば何とかなる可能性があるからだ。ある会社に勤めていてその会社で自分の居場所がなければ転職すればいい。

(義務教育では難しいけれども)ある学校でイジメに遭ったとすれば転校するという手もある。

ただ、多数派が有する労働観になじめないとか、学校教育システムそのものに疑問を持ったりした場合、かなりややこしいことになる。現行の社会システムそのもの、その社会で画一化された価値観になじめない人たちは排除されてしまい、自分の持つ価値観に殉じた生き方をしようとすると苦難の道を歩むことになる。

 

幸いなことに今の社会ではどの分野でも完全に画一化された価値観というものはほとんど存在していない。圧倒的多数派が占める価値観のもとでも、困難ながらも少数派は何とか生き延びる「隙間」は残っている。

また、多様な価値観を認めよ、といった声もある。

「完全なる」画一化された価値観なんて全く不要である。そんなものが出てきてこの社会を覆うような事態になればディストピアとなる。

多様な価値観がそれぞれ尊重される社会が理想ではあるけれども、そこまでいかなくても相対的に画一化された価値観になじめない少数派の人たちの居場所がそこかしこにある社会であってくれれば良しとするしかない。

 

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