僕は今も時々小学校時代の嫌な夢を見る。
給食が食べられなくて無理やり食べさせられたり、居残りをさせられたりするという、そんな悪夢だ。
僕は偏食であり、小学生の時は今よりももっと酷かった。
肉類を食べることができなくて(今もあまり好きではない)苦労した。給食では肉類が入っている献立が多くて僕が食べられないおかずがよく出てきた。
1年生から4年生までの担任は嫌いな食材をあらかじめ取り除いてくれたので何とかなった。ところが5年生のときの担任は「残すこと、まかりならぬ」といった方針を取ったので、僕は闘いの日々を過ごすことになる。
僕は頑として嫌いなものを食べなかったので、ついには担任が根負けし「特例」として僕だけは嫌いなものは食べなくても良くなった。
このことが僕がいじめられる遠因となり、僕が不登校となるひとつの原因となった(他にも原因があった)。
僕は今もって学校給食にはトラウマがある。
ちょっと前に「給食カフェ」的なものが流行したが、僕にとっては悪夢の再現に他ならなかった。あんなものが流行することが理解できなかった。
僕はこれっぽっちも給食にノスタルジーなんて感じない。
給食を残さずに食べるということは「正しい」教育的指導である。
「好き嫌い」をすることは良くないことだ、食べ物にしても人とのかかわりにおいても、という言いぐさは正しい。
この「正しさ」が曲者なのである。
好き嫌いなく食べ物を食べ、人と関わり合うということは理想論に過ぎない。人は「好き嫌いがあってなんぼ」なのである。
好き嫌いをするな、好き嫌いをなくせという「正論」は副作用を生み出す。
批判精神や強い者に対する抵抗といった気概を失わせるおそれがある。
自分が嫌うもの、許せないものに対して自分の意見を表明し、抵抗のための行動を取ることができなくなる可能性がある。
「好き嫌いを言うな」「好き嫌いを言うことは悪いことだ」と洗脳することは権力者にとってはまことに好都合である。嫌なことにも従順な「良民」を大量に生み出すシステム(学校や会社等)を円滑に運用し続ければ、こんなあほらしい社会も何となく続いていくことになる。
今は僕たちの頃のように無理やり給食を全部食べなくても良くなっていると聞く。食べ物に関しては個人の好き嫌いを許容するようになっていることは喜ばしいことだ。
他方人間関係ではどうだろうか。
相変わらず「好き嫌いを言うな」となっていないか。友だちが多いことが良い、友だちを多く作れ、てなことになっていないだろうか。
確かに心を許せる友だちを持つのはとても大切なことである。けれども「みんなと仲良く」することなんてない。気の合わない奴らなんかと無理に付き合う必要なんてない。
ただし、働くようになってからは価値観の違う人たちと付き合った方がよい(「仲良く」なるかは別問題)。狭くなりがちな自分の視野を広げるためにも、様々なものの考え方をする人たちと関わり合った方がよい。
人に関する好き嫌いはなくならないし、無理してなくすこともない。
ただ自分の「好き嫌い」の元にある根拠等を深く掘り下げる作業は続けてみる価値はある。好き嫌いそのものはなくならないけれども、ちょっだけ寛容になれるかもしれない。どれほど寛容になることができるのか、それが自分自身の成長である。
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