希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

頑張りすぎると結果が伴わないという件〈再掲〉

頑張ることを必要以上に強いられる社会は息苦しいものとなる。

また、悪しき精神論・根性論の温床となる。

頑張らない生き方を排除しない社会が健全な社会である。

 

初出 2016/12/6

 

僕たちは幼少のころから何事にも頑張れと言われ続け、頑張ることが良いことだとの刷り込みがなされる。

この頑張り至上主義は精神主義であり、根性論である。

とても非合理的なことであり、往々にして様々な問題を生じさせることになる。

 

とは言え、この頑張り至上主義はキャッチアップ型の経済成長期には有効なものであった。均質な商品を大量生産する工業化社会では頑張りの量がそのまま生産量、ひいては利潤に直結していたからである。また、工業化社会では同質性をベースにした組織が強みを発揮した。この同質性をベースにした組織で他者との差異化を図ろうとするといかに頑張ったかが評価基準になりがちであった。

教育面でも、知識の量が成績の差に表れるし、入試の際にはそれが合否の分かれ目となった。頑張って勉強して知識を大量に詰め込めばそれなりの学歴を得られたのである。その学歴を基にして同質性を軸にした組織である会社に選ばれ所属し、そこでまた頑張り続けるということになるのである。そこで、人生とは頑張ることである、というイデオロギーが生まれ、このイデオロギーが正しいものだとされる偏った風潮に毒された社会が形成されたのである。

 

工業化社会を脱した現代でも、この国では頑張り主義が根を張っている。

自分の頑張り度を会社や上司に見せるために長時間労働サービス残業も厭わない働き方を続ける。利益追求が存在意義である資本主義体制下の会社では成果や業績のみが問われてしかるべきなのに、意欲ややる気の情意面が評価の対象となっている。この情意面の評価を良くしようとひたすらに自分の頑張りを見せつけようとするのである。このようなことがまかり通ると非効率的になり生産性が低くなることは当然のことである。生産性の低さをカバーするために投下する労働「量」を増やそうとする。結果、長時間労働が蔓延する、という負の連鎖が続くことになる。

合理的で効果的な戦略を生み出せない、イノベーションを起こせない、そんな袋小路に嵌った現状を労働者個々の頑張りで切り抜けようとする無能な経営者があまりにも多すぎる。

 

会社経営に限らず、何事でも「頑張り」が強調されすぎると碌なことにはならない。学校生活における学習、クラブ活動においても頑張りばかりが強調されると学生も教師も疲弊するだけである。育児や介護も同様に当事者の頑張りばかりに依存すると質の良いケアが確保できないことになる。

 

頑張り至上主義は悪しき精神主義の亜種である。

戦前の軍部が犯した過ちを全く反省していない、歴史の教訓を全く活かせていないのだ。行き過ぎた精神主義は時として破滅をもたらすという恐ろしさを多くの人たちは忘れ去っているのである。

 

かといって僕は全く頑張らない生き方を肯定するわけではない。

人は時と場合によっては頑張らなくてはならないこともある。適度な頑張りはやはり必要なのである。しかし、その頑張りにも限度がある。まあ、「頑張りすぎない」程度に頑張ればいいのではないか、と思う。

頑張れば結果がついてくる、という尤もらしい物言いは眉唾物だと考えておいた方が良い。ほとんどの頑張りに対しては結果が伴わない、と冷徹に捉えておいた方が良い。特に頑張りすぎると結果が伴わないことが多い、ということは肝に銘じておくべだ。

頑張ることは善、というイデオロギーに疑いを持ち、時には頑張らない勇気を持ってもいい。

 

 

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