僕たちは幼い頃から「うそをついてはいけない」「正直者になれ」と散々言われ、そう刷り込まれてきた。うそつきは悪人であると、人として最低だと刷り込まれてきた。
確かに他者を陥れたり、悪意をもって欺くことはいけないことだ。人として当然のことである。
できればうそをつくことなく一生を終えたい。
世の中はうそに満ちている。
政治家どもは公約を果たさないどころか、真逆のことを臆面もなく言い出す。
今時政治家の言葉を真に受けている人などいない。もしいるとしたならば、よほど能天気か自分の頭でものを考えていない人たちである。同様に経営者の言葉も信じるに足りない。エスタブリッシュメント連中の言葉はうそで塗り固められている。
エスタブリッシュメントが噓をつき放題の一方で庶民はうそをつくな、と強いられている。
「うそをつくな」という教育は支配者にとって都合の良いものに他ならない。
支配者たちにとって支配される者たちが従順で正直であればあるほど統治が容易になる。
抵抗をし、そのためにはうそをつくことも厭わない人たちは容易に従わない者として支配者にとっては厄介な存在となる。
そのために「うそをつくことは悪である」「正直が尊い」というイデオロギーを庶民に叩き込もうと常に画策しているのだ。
うそをついたことがないという人は絶対にいないはずである。人は必ずうそをつくものだ。特に自分の身を守るために好むと好まざるとに関わらずうそをつく。このことは決して責められるべきものではない。
強者から身を守るため、あるいは「抵抗」するためにうそをつくことは庶民に認められた「権利」のようなものである。言い換えれば庶民の武器である。
僕が言いたいのはどんどん噓をつけとか他者を騙しても構わないといったことではない。
うそをつくことでだんだんと問題が大きくなり、結果破綻を招くことが往々にしてある。
対等な者どうしでの関係においては正直で誠実であることが当然なのは言うまでもない。うそをついて相手を騙し、自分の利得を得る行為は悪である。
僕が言いたいのは自分より強い者の理不尽な行為に対しては、時にはうそをついても我が身を守る行為が正しいこともあるということである。
強者による理不尽な行為に対して、正直にあるいは誠実に応じても強者の意のままになるだけである。うそをついてまでも我が身を守ることはない、という考えもあるだろう。一見爽快に見える行為ではある。しかし、それではずっと虐げられたままである。僕はやはりうそをついてまでも、「抵抗」をし、「矜持」を見せることが大切なのではないかと思う。
繰り返すがこの世はうそに満ち満ちている。
僕は強者によるうそに怒りを抱きつつ、時として強者に対してうそをついてまでも生き延びる生き方を肯定する。