希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「石の上にも三年」を鵜呑みにしてはならないという件

僕はかつて年長者から「石の上にも三年」的な説教をしばしば受けたことがある。その時は釈然としなかった、と覚えている。

なぜ嫌なことを我慢しなければならないのか。無理してまでも嫌なことをやり続けなければならない理由がどこにあるのか。「石の上にも三年」的な言説はそれらの疑問に対する根本的な解決を示すものではなかった。

 

根性論や精神論が好まれるこの社会では我慢が美徳だという風潮が蔓延しがちとなる。「石の上にも三年」という言葉が好まれ、よく用いられるところからもそのことはいえる。

しかし、よくよく考えればこの言葉の信ぴょう性は薄いものである。

ただ、単に「我慢を続けていれば、もしかすると良いことがあるかもしれない」と言っているだけだ。我慢をすることによって失われるもの、貴重な時間とか元々持っていた意欲など、を意図的にスルーしている。

 

我慢や忍耐を強いて得する者がいる。

我慢や忍耐を強いられざるを得ない人たちがいる。

圧倒的多数は後者である。

社会の各層で支配する側に属する者たちは支配される人たちに我慢を強いて、それが美徳であるというイデオロギーを浸透させる。己の既得権益を守るため、既得権をずっと持ち続けるために。戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」的な価値観を今も人々に植え付けようとする。そして、この手のアナクロリズムなイデオロギーを好む者たちは「個人主義」を目の敵にする。

 

「石の上にも三年」的なことを言いたがる者たちをよく見てみるとよい。

組織に安住した者たち、変化を嫌う者たち、自分の価値観を押し付けたがる者たち、他者の成功を妬む者たち、というような顔ぶれである。自分は我慢をしているのに、我慢を嫌い一歩を踏み出そうとする人たちが許せない狭量な者たちなのである。あくまで僕の偏った個人的な意見ではあるけれども。

 

僕は我慢なんか一切するな、と言いたいわけではない。

自分の幸福を追求し、その実現のための一定限度の我慢はしなくてはならないと思っている。

我慢さえすれば、後は何とかなるという態度は思考停止である。

強い言い方になってしまうけれども、僕は我慢さえすればという態度を取る人たちは人生を舐めていると思う。様々な出来事に遭遇して、我慢してやり過ごそうという態度からは何も生まれない。

「石の上にも三年」が死語になればいい、とさえ僕は思っている。