僕はこのブログで貧困問題は是が非でも解決しなければならないと主張している。人として生まれたからには何人も人間らしい生活を営むという権利を享受すべきだという考えがあるからだ。
しかしながら、僕は格差が生まれることを否定しない。人はすべて平等であるべきだとも思っていない。
確かに行き過ぎた格差はある程度は是正する必要があると思う。例えば1%の富裕層が99%の富を独占するなんてことはあってはならない。「常識」や「良識」に照らし合わせて異常なことだからである。でも、例えば10%の上位層が50%の富を占めているような状況は是認できる。競争を否定することは社会の活力を削ぐおそれがある。
この「競争」は機会の平等が担保されていなければならない。絶対の必要条件である。世襲で富や権力が受け継がれるような社会はゴメンだ。誰もがチャンスのある社会が理想である。生まれや家柄で人生が決まるなんてことは不条理である。
僕は「謂れのない」差別には断固として反対する。国籍や人種や性別、特定の地域に生まれたことによる差別は廃絶しなければならない。
しかし、僕は平等主義者ではない。
評論家の呉智英さんが「差別のある明るい社会」が正しいと論破していたが、僕もこの考えに概ね同意する。
人は皆平等である。これは理念としては正しい。
けれども現実は人は平等なんかではない。この社会は不平等の塊である。人は不平等であるという事実を受け入れて生きていかなければならない。
例えば学歴による差別や職業による差別は現に存在する。僕はこれらの差別は相対的なものに過ぎないと考える。時代や社会情勢が変われば差別の実相も変わってくる。学歴差別は確かにあるが、この社会では抜け道的なものが沢山ある。学歴が無くても良い生活を送る術がまだまだある。学歴が関係しない職域が沢山ある。
職業の貴賎も時代によって変わっている。医者や弁護士、会計士等は昔はステータスのある仕事ではなかった。現状は忌避されている仕事が将来にはステータスのある仕事に変わることは十分にありうることである。
格差や不平等が固定化されることが問題なのである。ある特定の階層が利権を享受し続け世襲化されることがダメなのである。ある特定の階層が不利益を被り続けることが不条理なのである。
特権層や既得権益を享受できる層が己の都合の良いように社会システムを構築し、不利益を受ける層が抵抗できない社会になることは是非とも避けなければならない。
持たざる者たちは抵抗するための力を常に蓄えておかなければならない。
格差や不平等が一概に「悪」だとは言い切れない。
この不条理を活動の源として、社会を発展させてきた面もある。
この不条理を克服するために、人は闘争し、様々な権利を獲得してきた歴史がある。
遠い未来に平等で格差の無い社会が実現されるかもしれない。今はその過渡期という考え方もできる。
あるいは人は他者を差別せずにはいられないという本性を持っているのかもしれない。格差の無い社会、平等な社会とは所詮絵空事なのかもしれない。
人は格差の無い社会、平等な社会を志向するのか、競争社会を是認し不平等な社会、格差社会を志向するのか僕には分からない。
今は、格差や不平等を受け入れつつも、貧困を克服することが現実的な向き合い方だと僕は思っている。