希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

今は「ビンボー自慢」すると白眼視されたり変人扱いされるという件

僕は当然のことながら(なぜ当然なのか分からないが)ビンボー人である。僕はビンボーであることを悲観視していないし自分を卑下したりもしていない。

カネを稼げる人が偉い人でありカネを多く持っている人が立派な人だというカネ万能主義イデオロギーからすると僕は全くのダメ人間である。

まあダメ人間であることは否定できないところなのだけれども、何だかスッキリしないような心持ではある。

 

僕は今友人が経営する塾で講師をしている。

その塾で僕が担当する生徒(中学生)たちと話をしていて、僕がかつて公務員をしていて仕事が面白くなくて辞めたということに対してネガティブな反応があった。安定した仕事を辞めることが考えられないという。また、僕が楽しんで自由を満喫しているお気楽ビンボーライフなんかも考えられないという。彼らはちゃんとした会社に就職して結婚していい生活を送りたいのだそうだ。それらは親の価値観が反映しているのかもしれない。あるいは彼らなりに考えて周囲の人たちを見てみてそのような価値観を正しいと捉えているのかもしれない。

僕は生徒たちが「真っ当な」考え方をしていることに感心した。その安定志向的なものを批判する気にはならない。ただ、人それぞれに様々な生き方・価値観があること、絶対的に正しい生き方なんてないことを伝えることができれば、との思いを抱いた。

 

このエントリーのタイトルに「ビンボー自慢」と書いたけれども、僕は殊更にビンボー自慢はしたくはない。カネはあるに越したことはない。

「衣食足りて礼節を知る」という成句はある面の真実をついていると思う。

ただ、カネ万能主義的なイデオロギーには拒否感を抱いている。カネが万能という価値観の一元化にどうしても馴染めないのである。

この「価値観の一元化」には多大な危険が伴う。例えばカネが万能という価値観ではなく、国家や会社に命を捧げることが正しいという価値観に一元化されたら、と考えると背筋が凍る思いがする。

これはただのヨタ話ではない。

現実にありうることなのである。

 

話題を塾の生徒たちとのやりとりに戻そう。

彼らのうちの一人が「先生の人生、もう終わってるやん」と問題発言をかましたのである。僕は怒りもせず、そんなことはない、僕の人生はこれからだ、とやんわりと否定した。

若い彼らからすると世間で「真っ当」とされるレールから外れた生き方をするともう終わりだと感じられるのだ。また、僕のような生き方を選択している大人に出会っていないのである。当たり前と言えば当たり前の話である。

救いがあるのは、彼らが僕を侮ったりしていないことが感じられたことである(ちょっとナメられてはいるけれども)。僕のようなちょっと変わった生き方をしていて、世間の真っ当な大人たちと異なった価値観を有する者に興味を抱いてあれこれとツッコミを入れることに楽しさを感じているのである。

僕が彼らに与えることができるもの、それはこんな僕みたいな奴でも何とか生き延びることができるということを身をもって示すことである。人生色々あって、それでも何とかなるという事実を知ってくれれば、それで十分である。

 

僕は自分のビンボーお気楽生活を満喫していることを控えめに表明しているが、もう少しだけ声高々に「ビンボー自慢」ができるようになればいいのになあ、と思っている。

ビンボー人が全く自分を卑下せずに「ビンボー自慢」が抵抗なくできるような世の中の方が「健全」で「真っ当」なような気がする。