希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

会社が自分の世界のすべてだと思い込むことは危険であるという件

僕たちは生まれてからずっと自分が置かれた環境に適応することを求められる。

幼稚園や保育所、学校でもそれぞれルールがあり、先生や他の生徒との関係を築かなければならない。働き始めてからは尚更に会社等の組織に「適応」しなければならない。

 

一部の人たちは組織になかなか馴染めないでいる。

僕は程度は軽いが社会不適合者である。まあ、程度が軽いと思っているのは僕だけかもしれない。

個人対個人の人間関係では悩んだことは殆どないが、組織の中での立ち位置をなかなか見出せなかった。会社という組織の持つ特有の空気やルールに馴染むことができなかった。

 

一方で組織に過剰ともいえるほどの適応をする人たちがいる。良く言えば忠誠心が高い人たち、悪い表現を用いれば「社畜」や「会社人間」となる。

一見、組織に適応することは良いことである。

協調性をもって周囲の人たちとうまく付き合い、仕事をこなす人たちはこの社会では真っ当とされる人たちである。

 

今から振り返って考えてみると、僕たちは学校で特に小中学校で社会に適応できる人間となるための「教育」らしきものを受け続けてきた。

勉強ができるだけではダメであって、掃除をきちんとすることや給食を残さずに食べること、班活動をしっかりとすること、クラスの委員としての責任を果たすことなど様々な社会適応者になるための訓練を受けてきた。

僕は不登校の経験があるのだけれども、無意識のうちに学校があるいは先生が強いてきた社会適応者になるための様々なものに対して拒否反応を示していたのだと、今にして思う。

 

組織に適応しさえすればO.Kというわけではない。何事にも限度というものがあり、ほどほどでなければならない。

中には組織に過剰に適応する人たちがいる。前述の通り、会社という組織であれば社畜となる。

ある組織に過剰に適応するとその組織特有の掟を普遍的なルールとしてしまい、一般社会と齟齬を生じることになる。また、組織の中での正しいとされる価値観に盲従してしまう。

会社の不正行為(不正会計や汚職等)はその会社に過剰に適応した者たちがなすのである。

 

組織内での「いじめ」も組織に過剰に適応したがゆえに発生する側面もある。

組織のルールや掟を絶対的なものとして過剰適応した人が少しでも逸脱した人たちを許せなくなりりいじめが起こる。自分たちが盲従している掟に従わない者たちを放っておくと、自分の存在価値が否定されるとまで思い込むのだ。これは学校でも会社でも役所でも同じことである。

自分の生きる場所が学校や会社にしかないと思い込み、狭量さが先鋭化するのである。

 

ある組織に過度にコミットメントすることを避けるためには、自分でコントロールするより他に方法はない。

学校至上主義、会社至上主義的なメンタリティに容易に陥ってしまうことを常に意識しておかなければならない。

なにせ僕たちはこのメンタリティを持つように幼少時から「教育」されているのだから。