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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「働かざる者、食うべからず」は残酷な言葉であるという件

ニートやひきこもり、ホームレス等の人たちに対して「働かざる者、食うべからず」という言葉を持ち出して非難する人たちが未だにたくさんいる。非難するだけならまだましな方で、支援策など無用だとかひどい場合には野垂れ死にしてもやむを得ないという極論を吐く輩もいる。

先人たちが血と汗を流して獲得した「生存権」という権利は不可侵のものだと僕は思っている。僕は人権思想そのものはひとつのイデオロギーに過ぎず、神聖視するのはいかがなものかという考えを持っているが、こと生存権に関しては絶対的なものだととらえている。

 

世の中には働けない人、働かない人が必ず一定数存在する。分かりやすいところでは、高齢者・障がい者・重い病気の人、子ども等々である。これらの人々に対してはさすがに「働かざる者、食うべからず」と言いたがる人たちも何らかの社会保障公的支援策が必要だと認めるだろう。

これらの「分かりやすい人たち」に対しては手を差し伸べることが当然という考え方は一見真っ当なものである。しかし、この考え方は国家や自治体、コミュニティが手を差し伸べるべき人を「選別」することにつながる危険性を秘めている。例えば劣悪な労働条件下で働き続けて心身に病を抱えて働けなくなった人たちはどうなるのか。弱った体に鞭打って仕事を探して再就職しようとしている健気な人には支援をして、働く気がない人たちは放置する、ということになりかねない。どちらも生活に困っているのに、選別するということは果たして正しいことなのだろうか。

 

ニートやひきこもりのように働けない人にとって「働かざる者、食うべからず」という言葉は残酷なものである。この言葉は一見真っ当でケチのつけようのない正論であり、反論することすら憚られる。

しかしながら、「正論」を無条件・無批判に受け入れ思考停止することはとても危険なことである。そんな風潮が蔓延している社会はロクなものではない。

労働至上主義、勤勉至上主義がはびこっているこの社会では、この正論を振りかざし悦に入っている者がマジョリティとなっていて、「働かなくてもいい」なんて言葉を吐くと異端視され、ひどい場合には排除されてしまう。まるで人は働かなければ生きている価値がない、とでも言いたげに。

 

人は無条件にその存在を肯定される、と僕は思っている。たとえ働かないでいようが、一見無為な時を過ごしていようが人は生きていても構わないのだ。働いているから生存を認められる、あるいは他者から生きる価値があると認められるから生存を許されるなんてことは絶対にない。

「働かざる者、食うべからず」という言葉が死語になった社会が誰にとっても生きやすい、寛容さがあり、健全な社会である。