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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

遅刻に殊更厳しく、時間厳守ばかりが問われる社会は息苦しい、という件

社会人としての最低限のマナーとして時間厳守がある。時間にルーズな人はなかなか信用されないようになっている。

 

会社や役所に勤めるようになると、あるいはアルバイトやパートでも、始業時間までに必ず出勤しなければならない。酷い職場では始業時間の30分前や1時間前に出勤することが慣習になっていたりする。これは当然にサービス残業である。

どの職場においても遅刻は厳禁である。一部フレックスタイム制等の例外はあるが、遅刻は制裁の対象となる。特定の業種に比較的「ゆるい」職場があるにはあるが、一般的には始業時間の管理は厳しくなされている。

 

欠勤については遅刻以上に厳しい対応がなされる。急病等のやむを得ない理由による欠勤でも普通の感覚を持っている労働者ならば肩身の狭い思いをする。無断欠勤でもしようものならば、まるで罪人のような扱いをする。

会社組織の管理運営上、遅刻や欠勤を戒めることは理に適っている。遅刻や欠勤が野放しにされていたら企業活動の効率性が悪くなるのは自明のことである。統制が取れなくなるのは致命傷にもなりかねない。

 

ここまで述べてきたことはあくまで会社側経営側にとっての理屈である。労働者は働きたくないときでも所定労働日ならばイヤイヤでも仕事をしなければならない。例えば、ある程度の期間の生活費を賄えるほどの賃金を確保したから、残りは仕事を休むという選択はできない。尤もこれは正社員の話であり、パートや派遣等の非正規雇用ではできない相談ではない。

日雇い的な働き方では、ある程度のカネができれば仕事をしないという手もある。その日暮し的生き方だ。ただ、世間ではその日暮らしをする人たちはネガティヴな評価を受けやすい。怠け者だの意欲がないとかの言葉が投げかけられる。

 

戦前までの社会では、一部のホワイトカラーの「月給取り」を除いて、渡りの職人や工員は日給で働いていた。今で言う不安定雇用層が大企業の現場職や中小企業の社員の主力層であった。

当時は欠勤や遅刻など日常茶飯事だったのである。また当時の現場では「親方制」を採っていて親方が仕事を請け負う体制が主流であった。労働者を直接統制するのは親方であり、会社が直接に労務管理を行う体制になったのは戦時中である。

親方たちは請負業務を完遂するために色々な手段で労働者を働かせるように仕向けることになる。いちいち欠勤や遅刻を詰っていては、他の職場に移ってしまう。おそらくは欠勤者がいることを前提として、人員のやり繰りをしていたものと考えられる。皆勤手当や歩合給等の上乗せ分を支払って、労働者のやる気を引き出したりした。

 

労働基準法の規定では、遅刻や欠勤に対する制裁が明文化されている。遅刻の時間分や欠勤分の賃金控除以外に1日の賃金相当分の50%を上限(一賃金支払期の10%を上限)として制裁を行うことが認められている。この規定以上のペナルティを課せば労基法違反となる。

つまり、遅刻や欠勤は強い表現を用いれば「処罰」の対象となることが、法律上(労基法上)担保されたことになる。

また、遅刻や欠勤が度重なれば懲戒解雇をなす正当な事由ともなる。

 

労働者は遅刻する「権利」や欠勤する「権利」は認められていないことになる。

さらに言えば、「怠惰の権利」「怠ける権利」が否定されていることになる。辛うじて年次有給休暇の権利が認められている。

労働者にとって、遅刻や欠勤は「悪」であるとの価値観を植え付けられることになる。

現行の資本主義体制において、労働者は「勤勉」さを求められていて、極言すれば体制に従順であることを求められている。学校教育においても体制に従順な人たちを生み出していくことが求められている。

まあ、当たり前といえば当たり前の話である。

しかし、ひねくれ者の天邪鬼である僕からすればまことに面白くない。

たかだか遅刻や欠勤しただけで罪人扱いされるのは息苦しいしゆとりのない社会だと思ってしまう。

労働条件や労働環境の改善を要求する手段として、職場の労働者が一斉に遅刻するという企てもなかなか面白いし痛快だ。

 

たまの遅刻や欠勤にいちいち目くじらを立てることは、あまりにも狭量である。

休まずに遅れずに働き続けることが尊いという価値観に違和感を覚える僕は、単なる怠惰な人間でダメ人間なのである。