希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「勉強ができる」ことは才能のひとつであるという件

僕は今でこそ勤労意欲の低いダメ人間であるけれども、小中学校のときは勉強がよくできる優等生だった。

でも、こんな過去の栄光なんて何の足しにもならない。仮に僕が昔は凄かったんだぞ、とか言って自慢すればただの「イタイ人」である。

勉強ができて、世間でええとこと言われる高校や大学に入ったとしても経済的成功や社会的威信を得られることにはならない、と僕は体現している。

 

僕は勉強ができることを自慢することはなんだか品のない行為だと思うし、勉強ができる人たちだけが社会的に成功する社会なんてクソだと思っている。ましてや勉強ができる人たちがそうでない人たちを見下す行為なんて最低で下劣なものだと思っている。

 

ところが、「元秀才」の僕としてはすっきりしないことがある。

勉強ができる人たち、できた人たちを殊更に貶める風潮がなんとなく蔓延しているような気がしてならないのだ。

例えばクイズ番組。中には豊富な知識を持つ人を賞賛するものもあるが、大抵は高学歴者や秀才とみなされた人たちに「こんな問題も答えられないのか」といった感じでバカにするような作りをしている。視聴者も勉強ができる人たちの頓珍漢な回答に溜飲を下げて、「やっぱり、勉強ができてもだめだよねー」なんて言い合いながら悦に入っている。

僕の身近なところでは、僕が講師をしている学習塾でも勉強ができて成績が良い子のことを他の生徒は快く思っていない節がある。極端な場合には勉強ができる子のことをバカにし、「勉強ができる、それがどうした」という感じで自分が勉強をしないことを正当化する。

このような風潮は決して良いことではない。

 

勉強ができることは才能のひとつである。運動ができるとか絵が上手く描けるとか歌が上手い、とかいったことと同質・等価のものである。

野球やサッカー等スポーツのために遠隔地の学校に行くことは批判されない(特待生制度や行き過ぎた場合のみ批判される)が、超難関校に越境入学することは批判される。

スポーツの練習に多くの時間を割いてもさして批判はされないが、長時間の勉強をすることは「可哀想」だとか「やりすぎ」だと批判される。

 

僕が小中学生の頃は勉強ができる子たちはある種のリスペクトを受けていたような気がする。勉強ができることを鼻にかけているような奴は嫌われていたが、そうではなくて他の子に勉強をそれとなく教えたり、学級委員を引き受けたりしてクラスのまとめ役をしたりする秀才は尊敬されていた。勉強ができる子は自分に与えられた役割があることを意識し、その役割に沿った行動を取っていた。

 

勉強ができる人たち、できた人たちをないがしろにすることはこの世の中の一部で蔓延する反知性主義的なものと相関性がある。

確かに勉強ができることが社会的な成功に直結するとは言えない。僕のようにダメ人間となり、社会のレールから外れたような生き方をしている人たちも一部に存在する。

しかしながら、社会の中枢を担う人たちの多くは「勉強ができた人たち」であることも事実である。

 

勉強ができる人たちを蔑ろにすること、勉強ができることを軽視することは社会全体の劣化につながる、と僕は思う。

あるいは少数派である「勉強ができる人たち」を多数派のそうでない人たちが蔑ろにすることは、多数派による少数派の排除という社会病理につながりかねない問題となる。

 

勉強ができることは才能のひとつであり、ある得意分野があるに過ぎない、と客観的に捉えるべきである。

確かに勉強ができる人たちがすべての既得権を握り、権力を掌握し、この社会をすべて動かす、という事態は避けなければならない。そんな社会には全く面白みもダイナミズムもない。

勉強ができることによって、「ちょっとだけおいしいところを得る」といった程度のことは認められても良い。