希望の舎―再生編ー

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労働の義務についてあれこれ考えてみる件

「国民は勤労の権利を有し、義務を負う」と日本国憲法に規定されている。一般的には労働の「権利」についての言説が多くて、労働の「義務」についてはなおざりにされがちである。

このブログのメインテーマのひとつは「労働の本質」について考えることである。労働は苦役なのか、自己実現の手段なのか、生活を成り立たせるためにやむを得ずにすることなのか、というように色々な論点がある。

労働が国家の成員たる国民が負う義務である、とはどうゆうことなのか、を考えてみることも労働の本質に迫るアプローチのひとつであると思う。

 

労働の義務を負うとはいっても強制的に就労させられることを意味しないのは自明のことである。憲法に「奴隷的拘束」を強いることが禁止されている。

僕なりの言葉で表現すると、労働は共同体の存立の根幹に関わる公共的な行為である、ということだ。労働は純然たる私的な行為ではなく、自分が属する共同体を維持発展させるために己に課せられた役務を果たすことなのである。これは労働の本質のうちのひとつである。

人は労働を通して共同体の一員としての自覚を得られれば、労働が単なる苦役ではなく、その意義や喜びを感じられるようになる。

人は社会的な生き物であるがゆえに、共同体を作ってそこに属し、その共同体のために自分の労力を提供する。その労力の提供と引き換えに報酬を得る。この営みこそが労働の本質である、と考えられる。

 

資本主義体制下ではこの労働が「賃労働」となり労働というものが変質する。労働者が共同体(会社や役所など)の一員という自覚を持ちえぬまま、会社に搾取され、あるいは使い捨ての駒以下の扱いをされ、疎外されて、労働が苦役となる。

賃労働が労働の本質から乖離していき、労働者は会社の利潤追求のためにのみ存在すると考えられるようになる。

どのような職種に就こうが、労働者である限りはこのことからは逃れられない。社会的威信の高い仕事であっても、それが共同体の存立に関わらないと意識すれば、あるいは自身が共同体の一員という意識が芽生えなければ労働は苦役となる。逆に言えば、一見単純作業に見える仕事をしていても、自分が共同体の一員である、共同体の存立に関わっているという意識を持てれば、その仕事は苦役とはならない。

 

労働の本質が「苦役」だということが前面に出れば、労働の義務が強制労働的なものになる。自分の意に反した労働を心ならずもこなしている、という気持ちになりがちである。そもそも、労働の義務という概念自体に拒否反応を示すようになる。

この「苦役」的な労働であるのにもかかわらず、そこに自己実現ややりがいを見出せという圧力にさらされ続けている労働者が多いという点に労働問題の核心があると思う。

一方、共同体の存立の根幹に関する公共的な行為としての労働であれば、労働に対する忌避は起こりにくい。俗に言う成長や自己実現、やりがいを伴った労働になり得る。労働の義務といった概念もすんなりと受け入れることができる。

今の労働を取り巻く状況は、多くの人は労働を「苦役」と感じ、一部の恵まれた人が共同体の一員という意識を持てる労働をしている。

労働の本質を語るときにこの両者の間に乖離があり大きな溝が存在することで、ちぐはぐで焦点がずれた言説が蔓延するのである。

 

労働の義務について考えるときに、どうしても労働の本質論に行き着くことになる。

労働の本質とはこれだ、という明確なものは今のところ存在しない。いや、それらしきものはあるが、政治体制や経済体制に影響されて時代によって変化するものでもあり、万人を納得させられるものがない、といった方が正しい。

 

将来的には労働の義務という概念そのものがなくなるかもしれない。

 

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